飛鳥時代

飛鳥時代の文化

飛鳥文化は、日本最初の仏教文化である。
大陸からの渡来人たちが活躍し、中国の南北朝、ペルシア・ギリシア文化の影響もみられる国際性豊かな文化だったのだ。
天平文化では唐の文化がもてはやされ、服装は唐風であった。遣唐使の廃止後は、中国文化が日本風に工夫が加えられ、服装も十二単や束帯へと変化した。
>> 仏教伝来と崇仏論争

伝聖徳太子二王子像

伝聖徳太子二王子像
聖徳太子と2人の王子を描いたとされる肖像画で「唐本御影」ともいわれる
ただし、8世紀半ばに別人を描いたとする説もある

飛鳥時代の出来事

北陸の継体天皇が即位、磐井の乱

雄略天皇の後、四代の天皇が短命となってしまい、最後の武烈天皇には子がなかった。
そのため、北陸地方の越前国より継体天皇を迎え即位する事となった。
この頃、大和王権は朝鮮半島の伽耶での利権を守る為、百済と新羅と戦う必要があった為、百済のへの出兵計画が立てられていた。
しかし、これに反発した九州・筑紫の磐井氏が527年に反乱を起こしてしまう。
翌年、528年に物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧される。

仏教を巡る争い

538年になると、百済から仏教が伝来するが、この仏教が新たな争いの火種になってしまう。
仏教派の蘇我氏と、反仏教派の物部氏の対立である。
この争いは587年に、蘇我氏の蘇我馬子が厩戸皇子(聖徳太子の事)たと共に、物部氏の物部守屋を滅ぼす事で治まった。

聖徳太子の治世

592年に初の女性天皇である推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政に就任する事で、推古天皇を政権を支える事となる。
聖徳太子の政策は、仏教の権威を利用する事で力を得た蘇我氏を牽制し、天皇の権威を高める事であった。
「和」という日本特有の精神が、604年に制定された憲法十七条の中心となり、その前年の603年に制定された冠位十二階は、各地の豪族に位を授け個人での昇進が可能となった。
こうして、各地の豪族たちを天皇の下に再編成していくのであった。

飛鳥寺の聖徳太子立像

飛鳥寺の聖徳太子立像

推古大王即位の場面

推古大王即位の場面
推古天皇(大王)が崇峻5年(593)に即位した際、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政に任じた場面

遣隋使による日本の外交デビュー

伽耶は562年に新羅に併合され滅亡しており、大和王権は軍を送り新羅軍と戦ったが、敗北してしまった。
600年に聖徳太子は第一回の遣隋使を派遣するが、これは朝鮮半島での伽耶の問題を打開する為であり、長らく途絶えていた中国との国交回復を狙ったものであった。
しかし、この時の遣隋使であった阿毎多利思比孤(アマ・タリシヒコ)は、正式な国書も持っていなかった為、隋によって追い返されてしまった。
国際的な舞台で恥をかく事となった王権は、これにより国内の制度改革の必要性を感じたのである。
607年に第二回遣隋使として小野妹子が派遣された。もちろん国書も持っており、隋の皇帝に国書を渡す事で来たのである。
この時、隋は高句麗と争っている為に味方となる国を求めており、そのため隋と対等に近い国交を結ぶことに成功した。
こうして妹子は裴世清(はいせいせい)という隋の国使と共に帰国した。
伽耶での利権を得ることは出来なかったが、遣隋使を派遣する事で、大陸の先進文化を多く輸入するという成果を得ることが出来たのだ。

復元遣唐使船

復元遣唐使船

仏教の布教

仏教は538年(552年とも)に我が国へと伝来してきており、蘇我氏と物部氏の対立を経て、国の保護を受ける事となり、仏教は飛鳥時代の文化の核となるものであった。
594年には「仏教興隆の詔(ぶっきょうこうりゅうのみことのり)」が出されており、仏教が政策の軸となる事が決まった。
さらに615年には、聖徳太子が経典の注釈書である「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を書いたと伝えられている。
なお、確かに仏教が布教していくのはこの時代だが、仏教を正しく理解していたのはごく一部の人たちだけであり、一般の人々には、病気の回復や先祖の供養を行うための「呪術」のようなものと考えられていた。
そのため、6世紀後半から7世紀の前半にかけて、飛鳥寺四天王寺法隆寺などの壮大な寺院が次々と建てられたのだ。
これらの建物の内部には様々な仏像や工芸品、絵画などが配置されており、これらを目にした人々は畏怖の念を感じたであろう。

王権の主導権を巡る権力闘争

推古天皇は次の天皇を明確に示す事なく亡くなってしまった。
そのため、次期天皇の座を巡り争いが起こってしまうのである。
蘇我蝦夷(そがのえみし)は聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を推す一派を抑え、舒明天皇(じょめいてんのう)を擁立した。
さらに蝦夷の子である蘇我入鹿(そがのいるか)は、643年に山背大兄王を滅ぼしており、聖徳太子の血筋は蘇我氏の手によって途絶えてしまったのだ。
しかし、その蘇我入鹿も645年に中臣鎌足と中大兄皇子によって暗殺されてしまう(乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん))。
翌日には蝦夷も自害しており、蘇我氏の一族も滅んでしまった。
その後、鎌足や中大兄皇子らにより改新の詔が出され、大化の改新が始まるのである。

蘇我入鹿の首塚

蘇我入鹿の首塚

伝飛鳥板蓋宮跡

伝飛鳥板蓋宮跡

甘樫丘

甘樫丘

飛鳥時代の木簡

飛鳥時代の木簡
写真右の木簡には、改新の詔より後に書かれた木簡で「評」の文字が見える
左の二枚(左:裏 中央:表)は「国-表-五十戸」制を示す木簡

白村江の戦いで大敗北

658年、阿倍比羅夫(あべのひらふ)は蝦夷を討ち、東北地方の海岸部要地を押さえた。これは斉明天皇と中大兄皇子の対外政策の一環であり、中でも最も重要視したのが朝鮮半島の情勢であった。
655年、高句麗と百済の連合軍が新羅へと侵攻するが、新羅は中国の大国である唐の援軍を受け、迎え撃つのである。
唐の軍はとても統率がどれており、百済は降伏してしまう。
大和王権は百済と国交を有しており、百済を復興する為に援軍を送るのであった。しかし、この時、斉明天皇が急死してしまい、中大兄皇子が代わりに指揮を執る事となった。
百済へ進軍した大和王権の軍は「白村江の戦い(はくそんこう・はくすきえ)」において、唐・新羅の連合軍と戦うが、唐軍の圧倒的な軍事力の前に、惨敗してしまう。
唐の軍が日本列島まで来ることを恐れた中大兄皇子は、戦いに備えるため、各地に堤や山城を築いたのである(甲子の宣(かっしのせん))。
飛鳥の宮から近江の大津宮へ遷都した後、皇子は天智天皇として即位する。
そして、天智は初の全国戸籍を作成し、徴兵と徴税をより効率的に行えるよう改革を進めるのであった。

古代最大の内乱、壬申の乱

天智天皇の死後、またも王権は次期天皇の座を巡って争いが起こってしまう。
天智の弟である「大海人皇子(おおあまのみこ)」と、実子である「大友皇子(おおとものみこ)」が対立したのだ。
大海人皇子は一時、出家し吉野の地へ隠居するが、天智の死の翌年には東国へと脱出し、挙兵する。
こうして、古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」が勃発するのである。
この戦いでは、先の天智の急進的な政治に不満を募らせていた地方豪族たちが、天智の実子である大友皇子へ敵対しており、大海人皇子が戦いに勝利した。
そして、乱の後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位したのであった。

律令国家体制の確立と、歴史書の編纂

天武天皇は本格的な律令国家体制を確立する為、様々な改革を行った。
皇族や皇親を重用する事で天皇の権力基盤を固め、姓(かばね)は八色(やくさ)の姓として再編成し、上級貴族の氏族を明確に分けた。
さらに天武は、各地域ごとに伝えられていた伝説や神話などを一つにまとめる歴史書の編纂にも取り掛かったのだ。
※天武が編纂を開始した歴史書は「古事記」と「日本書記」の2つであり、これらの書物は天武の死後、8世紀初頭の元明天皇の時代に完成する。
天武の死後、后であった持統天皇が即位し、天武の事業を引き継いでいる。
日本初の本格的な都城である藤原京を造営し、計画的な都市造りを行い、律令国家の監視絵を象徴する都となったのだ。
持統天皇は、孫を文武天皇として即位させた後、太上天皇となり、大宝律令も完成させた。

藤原京CG-藤原宮

藤原宮

藤原京CG-朱雀大路から北を望む

朱雀大路から北を望む

藤原京CG-宮城門

宮城門

藤原京CG-大極殿院の回廊

大極殿院の回廊

参照.http://www.nara-su.ac.jp/archives/fujiwaracg/

藤原不比等

藤原不比等


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