乙巳の変とは、西暦645年に中大兄皇子と中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。
聖徳太子が理想とした天皇を中心とした中央集権国家を目指す中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我氏を打倒する為、非常手段に訴えた。
その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。
聖徳太子の死後、仏教の布教を通じ蘇我氏の勢いは増していった。
しかし、その一方で、蘇我氏を倒し、聖徳太子が理想とした天皇中心の政治を実現しようとする動きも強まっていく。
第32代 崇峻天皇を擁立した後に殺害した蘇我馬子が626年に没した。
その2年後に第33代 推古天皇が次期天皇を指名せずに崩御してしまう。
馬子の子である蘇我蝦夷(えみし)は、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を推す一派を押させて、田村皇子(後の34代舒明天皇)を擁立する事に成功、父にも勝る実権を握る事になる。
そして、蝦夷の子である蘇我入鹿は、643年、山背大兄王に謀反の罪をかぶせ、自殺に追い込んだのだ。
こうした蘇我氏による独裁的な政治体制の中、大陸の唐に留学していた人々から、さらに新しい見聞がもたらされた。
やがて政界の一部に、豪族の世襲制と私地私民性を廃し、天皇を中心とする唐のような官僚制的中央集権国家を形成しようとする動きが起きてきた。
645年、唐からの帰国僧・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)に師事していた中臣鎌足は、舒明天皇と皇極天皇の子の中大兄皇子を味方に付け、宮中で入鹿を謀殺、さらに翌日には蝦夷を自害に追い込んだ。
蘇我本家が滅んだこのクーデターが、「乙巳の変」である。
乙巳の変の背景には、当時の緊迫した東アジア情勢もあった。
唐が高句麗へ侵攻し朝鮮半島が軍事的緊張に包まれる中、有事(戦争)に対応するためにも中央集権体制を確立し、国内支配を一元化する必要があった。
乙巳の変の後、皇極天皇は退位し、その弟で中大兄皇子の叔父にあたる孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子となった。
一部の豪族だけが成り得た大臣と大連は廃止され、鎌足は天皇の補佐役である内臣(うちつおみ)に就任した。
政治改革「大化の改新」の始まりである。
645年末には、100年もの間、都が置かれていた飛鳥を離れ、難波(現在の大阪)へ遷都する。
このため、地縁の強い豪族の力が削がれる結果となった。
翌646年、中大兄皇子は「改新の詔」を発布した。
人民や土地は全て、国家である朝廷のものであるとした公地公民制を執り、それまでの体制を根本から覆そうとした改革宣言である。
公地公民制において、それまで認めていた豪族の私有地(田荘:たどころ)や私有民(部曲:かきべ)までも廃止された。
その他にも、班田収授法や統一的税制の実施などを宣言したといわれる。
なお、宣言した後、現実に実行されたかどうかは、不明である。
改新の詔にある「郡」とは大宝律令によって潤色されたもので、大化の改新はなかったのでは?とする説がある。
藤原京から出土した木簡により『日本書紀』に記される詔の内容が潤色されたものであることが確認。
『日本書紀』における「大化の改新」とは、残念ながら奈良時代に書き換えられたものであるようだ。
※「郡」とは律令制の行政区画で国下に置かれた。当時は実際には「評」と書いていたことが藤原京から発掘された木簡より判明
しかし、天智が移ったとされる難波宮は壮大な規模であった事から、天智の時代に何らかの政治改革が行われていたのではないだろうか。