上杉謙信(1530〜1578年)は戦国・室町時代の越後国の武将である。後の米沢藩の藩祖でもある。
中越を本拠地として、内紛を平定して、上越・中越の統一を果たした。
関東管領上杉憲正への援軍を皮切りに、17年間にわたって越山(関東出兵)を敢行し、北信濃の川中島では、甲斐の虎といわれた武田信玄と五回にもおよぶ戦いを繰り広げた。
上杉謙信は元の名前を長尾景虎(ながおかげとら)といい、越後守護の家臣・長尾氏の出身である。
謙信の父である長尾為景(ながおためかげ)は、対立していた主君の上杉房能(ふさよし)を倒し、越後国を支配するという下剋上を成し遂げた武将だ。
しかし為景は、長尾による越後支配に反対する勢力との抗争を収拾できないまま死去してしまい、子である謙信が後を引き継ぐ事となってしまう。
謙信の兄である晴景(はるかげ)は穏健政策をとり、武力での平定を避けていたが、謙信は武力によって抗争を終わらせるのであった。
この政策の違いが、兄弟の家臣同士の内部分裂を生んでしまう結果となってしまう。
しかし晴景は謙信に家督を譲った為、謙信は19歳という若さで実権を握る事になったのだ。
謙信は、この争いにおける自身の悪行を悔い、贖罪の為に一生妻子を置かずに出家したといわれる。
越後の統一後、謙信は外征に転換する。
関東を支配する北条氏を討つため、関東出兵を敢行したのである。
この出兵は当時の関東管領であった上杉憲正の要請を受けたためである。上杉憲正は関東管領という地位にありながら、北条氏により関東の地を追われてしまったのだ。
そして、北条氏から関東の地を奪還する為、謙信は17年間にも及ぶ戦を仕掛ける事となったのであった。
出兵から9年目に謙信は、関東管領と上杉の名を受け継ぎ、足利氏の一人を鎌倉公方として擁立している。
関東と越後ではとても離れている為、謙信方の経済的負担はとても大きく、他の地への外征への影響も大きかったといわれる。
同時期、謙信は信濃国と越後の国境付近である川中島にて武田信玄と戦っているが、この戦いでも常に軍資金不足に悩まされていた。
また、関東管領という官職もすでに権威のないものであり、北条氏・武田氏ともに戦いに勝利する事は出来なかった。
さらに、この時期、織田信長がすでに上洛を果たしており、かなりの勢力を維持していた。
信長の勢力は謙信を討つ為、北陸より進軍を開始しており、謙信は関東への出兵を中止せざるを得なくなったのである。
謙信は織田家との戦いで、柴田勝家の軍を打ち破り、凄まじい強さを発揮するものの、脳溢血にて病死してしまった。