武田信玄

戦国最強 武田信玄

武田信玄

甲斐の虎 武田信玄

武田信玄(1521〜1573年)は戦国・室町時代の甲斐の国の戦国武将である。
信玄は父である武田信虎(たけだのぶとら)を甲斐国より追放して領地を相続した。
家督を継いだ後、信玄は信濃国へすさまじい速さで領土を広げていき、川中島にて越後国の武将・上杉謙信と5回も戦う事となった。
巧みな人材登用と経済政策で軍事力と経済力を高め、最終的に駿河や遠江国、三河国などを収め、数カ国の大大名へと斉唱した。
足利義昭の命により、織田信長包囲網を形成し、徳川家康を三方原の戦いにて撃破するが、その直後、信玄は病死してしまった。

武田領は強豪に囲まれていた

信玄は甲斐国を統一した武田信虎の嫡男であり、いずれは父の後を継ぎを武田家の当主となるはずであったが、父は子である晴信(後の信玄)を廃嫡されそうになったため、家臣たちと共にクーデターを起こして、信虎を駿河へと追放する事で、当主となった。
信玄が家督を継いだ当時の甲斐武田領は、北を越後の長尾氏(上杉氏)、東を相模の北条氏、南を駿河の今川氏という強大な大名家に囲まれていた。
信玄は自身の勢力を広げるためにまず、信濃国へと侵攻した。当時の信濃は真田氏や諏訪氏、村上氏などの小勢力のみで、比較的平定が容易であったからだ。

同盟で背後を固め、上杉謙信と戦う

信濃平定において信玄は、葛尾城主の村上義清には二度もの敗北を喫するなどの苦戦も強いられたが、無事に信濃を平定し、勢力基盤を固めた信玄は、北条氏と今川氏と「甲相駿三国同盟」を結んだ。
この同盟で背後を固めた信玄は信濃を超え、北上し海を手に入れるため、越後への侵攻を開始する。
しかし、越後の上杉謙信と川中島を巡り、五回にわたり交戦するが、結局越後を占領する事は出来なかった。

信長を討つ!西上作戦

上杉謙信と戦いの後、越後への侵攻を断念した信玄は、室町十五代将軍である足利義昭の命により、織田信長を討つ為に西上作戦を決行する。
遠江や三河国を平定し、最終的には上洛まで果たすという遠征作戦である。
信玄はこの作戦で積極的な外交策戦を展開し、越前国の朝倉氏や近江国の浅井氏、さらには摂津国の石山本願寺にまで働きかける事で、織田信長包囲網を形成する。
遠江での三方原合戦で徳川家康を破った信玄は、ほぼ兵力を温存した状態で遠江国で越年した後、さらに東三河へ侵攻する。
そして徳川方の防衛の要所である野田城を攻略するが、間もなく信玄は病死してしまった。

巧みな領国支配

信玄は、自領である甲斐に加えて信濃、飛騨、東美濃、駿河、三河、遠江などの多くの領地の獲得に成功したが、これらの戦略を支えたのは信玄の巧みな領国支配にあった。
城下町に商人や職人を集めて住ませながら、河川などの治水事業新田開発も行い、商業・農業ともに活性化させる事で経済を豊かにしたのだ。
さらに金山開発にも着手しており、軍事資金も獲得する事に成功した。
信玄独自の分国法である「甲州法度乃次第(こうしゅうはっとのしだい)」を制定する事で、軍事と経済の要地は直轄支配する事で、支配権の徹底に努めたのだった。



↑ページTOPへ