織田信長

天下布武 織田信長

豊富な経済力を武器に天下統一

織田信長(1534〜1582年)は戦国・安土桃山時代の尾張国の戦国武将である。尾張守護代の家臣の家の出身で、1560年の「桶狭間の戦い」で駿河国の大名である今川義元を打ち破る事で、名声を挙げた。
さらに美濃国・近江国を平定し大きく飛躍した信長は「天下布武」を宣言し上洛を果たした。上洛後は豊富な経済力を武器に天下統一事業に乗り出す。
甲斐の武田氏や室町将軍である足利氏 などの抵抗する勢力を次々に滅ぼす。
天下統一に王手をかけるため、近畿や東海、北陸の平定に乗り出すが、直後の1582年6月に「本能寺の変」で、家臣である明智光秀に討たれてしまった。

足利義昭を奉じて上洛

今川義元を討ち果たした信長は、続く1567年に美濃国稲葉山城にて「斎藤龍興(さいとうたつおき)」を追放する。
この頃より、信長は「天下布武」の印判を使い始めており、武力による天下統一の意思を明らかにしたと云われる(もっとも、この時代の「天下」とは畿内、および四国を指す言葉であり、全国統一という意味ではなかった)。
戦国大名の多くが領地の拡大を目的としていた時代に、信長のみが「天下布武」を宣言し、いち早く行動に移したのだった。
尾張国と美濃国の二カ国を抑え、力を蓄えながら信長は、足利義昭を奉じて上洛する。
室町将軍の名のもとに近畿の領有を宣言した信長は、本拠地であった尾張をを離れ、朝廷や幕府などの既存の権威を後ろ盾に勢力圏を大幅に拡大していった。

経済改革 楽市楽座

信長が新たに獲得した大名の領地は、初めは服従を条件に安堵(あんど)していた信長であったが、後には追放し、新たに自分の直属の家臣たちに領地を分配していった。
領地の警護だけではなく、領国支配・経営までも家臣たちに任せたのである。これも信長が初めて行った試みである。
財源についても、信長は既存の農業や天然資源のみに限らず、新たに商業に着目した。
楽市楽座による領地内の関所を撤廃し、さらに街道を整備する事で、商工業者の行き来をスムーズに行うことで、より城下町の経済が豊かになっていったのである。
当時の大坂の堺は、非常に経済が豊かに発展していた為、信長はここも自身の直轄領地とし、日明貿易の拠点として利益を掌握していった。

鉄砲を使い、強敵 武田に勝利

商業を豊かにする事で、信長は莫大な経済力を得た。この経済力を使って、信長はさらに新たな改革を行うのである。
1543年に南蛮より種子島へ伝来した鉄砲だ。
当時の鉄砲は、装填した弾を発射するまでにとても時間が掛かるため、鉄砲は戦の武器としては使えないと考える大名が多くいた。
しかし、信長は鉄砲隊の射撃訓練や配列などを工夫する事で、非常に強力な武器として用いて戦に勝利していったのだ。
特に有名な戦いでは、1575年の「長篠の戦い」である。当時、戦国最強と云われた甲斐の武田氏を打ち破った戦いだ。
「信長公記(しんちょうこうき)」によると、信長は「長篠の戦い」で3000挺の鉄砲を用意した。
5人の奉行に鉄砲足軽を配備し、武田の騎馬隊にそれぞれ鉄砲を撃たせて戦力を削がせていく新戦法である。
この後も、信長は新戦法を持ちいて連戦連勝を重ねていくのであった。

安土城を建築するが、本能寺にて謀反

信長はさらに、新たな城の建設に取り掛かった。
琵琶湖のほとりに、物流の要地として豪華絢爛な安土城を建てた。ここを新たな拠点として信長、さらに近畿や北陸、甲斐などを平定していくのであった。
そして、中国地方の毛利氏と交戦中の羽柴秀吉より援護要請を受けたため、信長自身も毛利氏と戦うため出陣の準備をしている最中、1582年の6月に京都の本能寺にて、明智光秀の謀反にあい、志半ばに死去するのであった。



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