室町時代は西暦1336年から1573年までの時代を指す。後醍醐天皇の命により、新田義貞や足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼした年が1333年で、その3年後の1336年に足利尊氏が征夷大将軍となり幕府を開いた。
そして、尾張の戦国武将であった織田信長によって、足利十五代将軍の足利義昭が京を追い出されてしまい、室町幕府が滅亡したのが1573年であった。
鎌倉幕府第14代執権であった北条高時の子、北条時行(ときゆき)は鎌倉将軍府の足利直義(ただよし)を破り再び鎌倉を占拠した(中先代の乱)。
北条氏の再興を謀る時行を討つため、足利尊氏は時行征討の命令を求めたのだが、尊氏が力を付ける事を警戒した後醍醐天皇はこれを拒否した。
これを受け尊氏は、朝廷から離反し勝手に鎌倉に出陣してしまう。後醍醐天皇は尊氏を討つ為、新田義貞を差し向けるが失敗してしまった。
その後、不利になった尊氏は一時九州へ敗走するが、次は20万に及ぶ大軍で挙兵する。摂津の湊川で尊氏と楠木正成は対峙する事となり、この戦いに勝利したのは尊氏であった。
そして京都を制圧した尊氏は、新たに光明天皇を即位させ、政治方針である建武式目を制定する。
こうして、1338年に尊氏が征夷大将軍に就任する事となり、室町幕府が開かれる事となったのである。
>> 湊川の戦い
室町幕府が成立すると、光明天皇は北朝を建て、後醍醐天皇は神器を持って吉野へと逃亡を謀り、南朝を建てた。
同時代に二人の天皇が存在する事となってしまい、ここに南北朝時代が始まる事となった。
南朝はその後、主な武士集団や後醍醐天皇本院が亡くなってしまい急速に弱体化してしまう。しかし、それでも幕府は南朝を滅ぼすことが出来なかった。
結果、幕府内でも意見が分かれ、対立が起こるのである。
>> 南北朝の動乱
幕府では尊氏が軍事を担当し、弟の直義(ただよし)が政務を担当する。
尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)は、急進的な人物であり、協調派の直義と対立する事となったのだ。
直義は南朝との講和を画策するのだが、尊氏はこれに反対した為、兄弟同士でも争いが起こるのである(観応の擾乱(かんのうのじょうらん))。
急進派・協調派ともに南朝の権威に頼る事で勢力強化を図っており、この三者は複雑に離合集散を繰り返すていく事となる。
南北朝の争いは、南朝、北朝急進派、北朝協調派の三つ巴の争いへと発展した。
これらの勢力の争いは、その後全国にまで拡大してしまうのだ。
南朝は吉野を攻撃された為、脱出を余儀なくされてしまい、九州へと拠点を移す事になるのである。
尊氏、直義、高師直らの没後も、この対立は終結を見ることなく、次の世代へと続いていた。
そして、60年近く続いた動乱に終止符を打ったのは、三代将軍の足利義満であった。
義満は各地の武士を幕府の支配下に置き、南朝勢力を弱体化させていった。
そして、南朝と北朝の両統から交互に皇位継承者を出すことを条件に南北朝を統一させたのである。
こうして、誕生した天皇が後亀山天皇である。
室町幕府の機構は、義満の時代にはほぼ整っていた。
将軍補佐の管領(かんれい)には有力守護大名の三管領である細川、斯波、畠山が交代で任命された。
地方では特に関東を重視しており、鎌倉府の長(公方)として足利基氏(もとうじ)を派遣している。
将軍の下には奉公衆(ほうこうしゅう)といわれる直轄軍を編成したのだ。
優秀な軍事力を利用する事で、義満は有力守護の統制を進めていったのである。
>> 室町幕府の機構
室町幕府は守護大名らの有力大名により連合政権であった。
義満の代が足利将軍の全盛期であったが、義満の死後は、幕府と将軍の権威は大きく失墜していく事となるのである。
四代将軍義持(よしもち)の代までは、比較的安定期ではあったものの、鎌倉公方の独立意識が高くなっていった。
第5代将軍の義量(よしかず)は義持に将軍職を譲られた後、早世してしまい義持は再び将軍職に就くが、義持も急死してしまった。
将軍に付く人物が安定しない時期が続くのである。
義持は後継者を指名せぬまま亡くなってしまった為、次の六代将軍はクジ引きによって決められたのである。
こうして、足利義教(よしのり)が六代将軍に就任したのである。※この義教は籤引き将軍と呼ばれた。
この義教は悪政で名高く、独裁的な専制政治を執ったのだ。
鎌倉公方や有力大名を次々に追討しており、最後には暗殺されたのである。
これ以降、幕府の権威は急速に落ち込んでいく。
>> 室町幕府の衰退
将軍の存在感が衰えると、幕府の実権は有力大名へ移っていく事になる。
権力者が入れ替わると必ずと言ってもいいほど権力争いが起こるものである。
当然、大名たちの間でも、家督争いが激化していく。
父親が相続者を決定していたそれまでの伝統に対し、相続する者の能力と家臣らの支持の獲得という新たな伝統が生まれていった。
さらに、管領家と将軍家でも、将軍の跡継ぎ問題などを巡り争いが起こる。
実権を狙う細川勝元(かつもと)と山名持豊(もちとよ)の対立と結びついて、応仁の乱へと発展するのであった。
応仁の乱は、細川氏の東軍と、山名氏の西軍に分かれて戦った大乱であった。
>> 応仁の乱
八代将軍の足利義政(よしまさ)は、弟の義視(よしみ)を後継者として指名するが、翌年に義尚(よしひさ)が生まれる。
義政の妻であり義尚の母である日野富子は、息子である義尚を将軍に付かせる為、山名持豊に補佐を依頼し、義政・義視らと対立したのだ。
義視は元々細川氏側であったが、山名氏側へ寝返るが、富子らは逆に細川氏側へ寝返る。
戦乱が続く中、自暴自棄になった義政はまだ9歳であった義尚に将軍職を譲り自身は隠居してしまう。
そして、東西両軍の棟梁が亡くなってしまい、両軍を和睦を成立する事が出来たのである。
しかし、将軍と幕府の権威はほぼ完全に消滅してしまったのであった。
この応仁の乱によって、日本各地では秩序が乱れ、混沌とした戦国時代へと突入していく。
応仁の乱のよって幕府の権力が失墜した事で、力の均衡が崩れ、各地で下剋上の動きが広がって行く。
関東の北条早雲を先駆けとして戦国大名と呼ばれる勢力が日本各地に出現していく。
大名たちは領国内の土地や民衆を支配するとともに、領土拡大を図り、近隣諸国の大名と争いを繰り広げていった。
早雲以外に武田信玄や上杉謙信、毛利元就といった大名らが武力を通じて急速に力を付けていく。
>> 戦国時代
各地で大名が群雄割拠するなか、中央では幕府の実権が将軍から大名に奪われていく。
松永久秀などは、十四代将軍の義栄を擁立する事で権力を握っていた。
しかし、尾張の大名である織田信長が、十五代将軍となる足利義昭(よしあき)を奉じて上洛してきた為、松永久秀は信長に臣従する事となる。
尾張を平定した織田信長は1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破る事で、一気に名前を挙げた。
同時期、暗殺された室町十三代将軍の足利義輝(よしてる)の弟であった義昭は越前にいた。
義昭は明智光秀を通じて信長を頼るようになったのである。
義昭は信長の協力を得る事で京都に入る事に成功した。
十五代将軍となった義昭は、信長を副将軍や管領などへの任官を促すが、信長は義昭から官位を受けなかった。
この時、信長は自身の勢力を広げる事を考えており、将軍の配下に加わるつもりなど毛頭なかったのだ。
さらに、信長は将軍の権利にすらも制限を掛けたため、これに不満を感じた義昭は、諸国の大名たちに反信長連合を呼びかけるのである。
しかし、室町幕府の将軍は大した武力も持っておらず、義昭など信長の敵ではなかった。
信長が最も恐れていた甲斐の武田信玄も急死する。
義昭ら反信長勢力にとって、信玄の死は非常に痛手であり、これを機に信長は義昭を京より追放した。
将軍が都を追われた事で、室町幕府は滅亡してしまったのである。
足利義政(1436〜1490年)は室町幕府の8代将軍である。
失政により将軍の跡継ぎ問題を引き起こしてしまい、1467年に応仁の乱の原因を作ってしまった。
銀閣や枯山水、水墨画、生け花などに代表される東山文化の興隆を支えた人物でもある。