北条早雲

民をいたわる善政を敷く 北条早雲

北条早雲 北条早雲画像(小田原城所蔵)

戦国大名の先駆者といわれる武将

北条早雲(1456〜1519年)は戦国・室町時代の武将で、関東・後北条氏の初代当主である。北条早雲という名は、一般的に後世による総称であり、早雲本人は自身を「伊勢新九郎」と名乗っていた。
早雲は室町幕府の政所執事である備中伊勢氏の出身であり、姉妹が駿河国の今川氏の妻であった為、今川氏の縁戚として勢力を拡大していった。
早雲はまず、今川氏の内紛を収める事で、駿河国内の12郷と興国寺城へ入る事に成功した。
さらに関東管領や鎌倉公方の内紛に乗じて勢力を伸ばし、伊豆国相模国まで掌握したのである。
実力のみで勢力を急速に広めた為、早雲は戦国大名の先駆者と云われる。
しかし、早雲に関する当時の資料はあまり残っておらず、江戸時代以降に作成された軍記などによるものが大半である。

四公六民・徳政令などの民を思いやる国造り

早雲は小田原城を奪取し相模国を平定するが、早雲が広域の領地を得ることが出来たのは、諸勢力との政治的駆け引きの手腕の良さでもあるが、善政によるところが大きい。
戦国大名として、初めて検地を実施したのは早雲であるといわれ、農民が保有している農地の量を正確に把握する事で、新たな試みを行ったのだ。
例えば四公六民による減税である。それまでは五公五民の税率で、武士と民と同じ量の農作物を得ていたが、武士の取り分を減らすことで、農民の暮らしが豊かになった。
さらに、早雲は徳政令も行っている。災害などによる飢饉で、年貢を納める事が出来ない農民は、一時的に納税を免除したのだ。
こうした工夫により、早雲の領地は豊かになっていき、後北条氏による100年もの関東支配の基盤となったのである。



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