豊臣秀吉

天下統一を成し遂げた 太閤 豊臣秀吉

関白にまで上り詰めた稀代の出世頭

豊臣秀吉(1537〜1598年)は安土桃山時代・戦国時代の武将である。農民の生まれでありながら織田信長に仕え、戦を通じて頭角を現しながら関白にまで上り詰めた稀代の出世頭だ。
織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた後、秀吉は迅速に上方に戻り、明智光秀を討ち滅ぼした
信長の葬儀を行い、続く賤ヶ岳の戦いでは、織田家臣団筆頭であった柴田勝家にも勝利を収め、信長の後継者として、対立勢力を征討・攻略し天下統一を達成する。
刀狩や太閤検地などの新たな試みも実践しており、全国支配を進めた。
2度にわたる朝鮮出兵を敢行するが、計画は上手くは行かず、秀吉自身は2度目の出兵の最中に没してしまった。

羽柴秀吉

羽柴秀吉(豊臣秀吉)

中国大返し、謀反者を討て!!

1582年、羽柴秀吉は中国地方にて毛利氏と争っている最中、京都にて「本能寺の変」が勃発した。
秀吉の主君である織田信長が、秀吉と同じ織田家筆頭の家臣である明智光秀に討たれてしまったのである。
この報せを聞き、迅速に毛利氏との和睦を行い、光秀を討つために京都へと戻った。(中国大返し)
そして、山崎の戦いにて、秀吉は無事に明智光秀に勝利した。
消失した本能寺において、信長の遺体は見つからなかったのだが、秀吉は木造を遺体と偽り、葬儀を敢行する。
これにより、秀吉は主君の敵討ちと葬儀との両方の重役を果たした事となり、織田家における主導権を握ってゆく。

明智の次は、柴田勝家

信長の死後、織田氏の家督問題などに関する会議である「清州会議」が行われた。
秀吉はこの会議で、信長の孫であり、まだ三歳の「三法師(後の織田秀信)」を信長の正統な後継者として擁立した。
柴田勝家は三男の織田信孝を推した為、秀吉と対立する事となり、翌年の賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉は勝家を滅ぼしたのであった。
秀吉は順調に対立勢力を掃討して行くが、ここでも問題にぶつかってしまう。
信長の盟友である「徳川家康」である。
野戦の達人といわれる家康が秀吉の前に立ちふさがるのであった。

戦わずして勝つ戦略

1584年の「小牧・長久手の戦い」において両者は対峙する事となるのだが、この戦いで秀吉は家康に敗北を喫する事となった。
秀吉は家康を武力にて屈服させるのを諦め、懐柔作戦に出る。
名門藤原氏の養子となる事で、朝廷より豊臣姓を授かり関白となったのだ。
さらに、自分の妹と母親を徳川家へ人質として差し出した
関白である秀吉にここまでされては家康も逆らうことが出来ず、秀吉に臣従する事となった。

天下統一、秀吉の全国支配

家康を臣従させることに成功した秀吉は、続いて九州の島津氏や関東の北条氏を屈服させる。
これにより、秀吉は無事に天下統一を果たした。
統一後、秀吉は、前任者であった信長の構想を忠実に継承しながら、全国支配を進めていった。
もちろん、秀吉独自の改良を随時加えている。
例えば、信長が日本初となる常備軍を作り上げた兵農分離では、秀吉はさらに、刀狩によって農民たちから武器を取り上げ、非武装化したのであった。
こうする事で、大幅に農民たちの一揆を抑えることが出来た。

関白 秀頼の切腹

秀吉の政権は安定的に続いていくかと思われたが、秀吉の死が近づくにつれて問題も多く露見していく事となった。
一つは後継者問題である。
秀吉には長らく実子がいなかったため、秀吉は養子を授かる事で後継者問題の解決に乗り出した。
養子である豊臣秀次を自分の後継者として関白職に付かせるのであったが、その後に実子の秀頼が生まれるのであった。
秀頼が生まれると、秀吉は秀次の存在を疎ましく思うのであった。
我が子である秀頼に権力を継がせるために秀吉は、秀次に謀反の疑いをかけ、切腹に追い込んでしまった
また、同時期に茶人である千利休も切腹させている。これらの行為は、主君秀吉に対して家臣たちは大いに不信感を持つのであった。

朝鮮出兵と政権の分裂

もう一つの問題は、朝鮮への出兵「日明戦争」である。
この戦は、そもそも目標や得られる成果も不明瞭であり、いたずらに各地の大名たちを大いに疲弊させる結果となってしまう。
また、この戦いでは戦功を焦る加藤清正や福島正則などの武断派と、戦功を秀吉に報告する石田三成などの文治派との対立を生んでしまい、後の秀吉政権の崩壊へと繋がっていくのである。
結局、この戦いの最中に秀吉は病死してしまい、出兵も中止されるのであった。(1598年)
豊臣家臣団筆頭である徳川家はこの戦いに参加しておらず、大いに力を蓄える事で出来ており、続く関ヶ原の戦いで東軍を勝利へ導く事が出来き、さらに三年後に征夷大将軍となる。

志津ヶ嶽月 秀吉(東京都国立国会図書館蔵)

志津ヶ嶽月 秀吉(東京都国立国会図書館蔵)



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