桓武天皇

千年の都、平安京を築く 桓武天皇

桓武天皇

藤原氏によって誕生した天皇

山部親王(やまべしんのう、後の桓武天皇(737〜806年))は光仁天皇の大一皇子ではあったのだが、母の高野新笠(たかのにいがさ)の家柄が決して高くはなく、皇位には血筋上遠い存在であった。
天智天皇と天武天皇の両系統の血筋を引く異母弟の他戸親王(おさべしんのう)が皇太子には推挙されていたが、推挙していた藤原北家の永手が死去する。
その後、藤原式家の百川が暗躍し、他戸親王の母の井上新皇が光仁天皇に呪いを掛けていると謀り、廃后となり、他の他戸親王も廃太子とされてしまった。そして擁立されたのが山部親王となった。
廃されてしまった母子は2年後の同じ日に亡くなっており、殺害された可能性がある。

血統の断絶と遷都

桓武天皇は即位した時、称徳天皇の崩御以降は天武天皇の血統が断絶してしまい、天智系へと皇統が移ってしまっていた。その為、天武の都を捨てるために即位後、さっそく新しい都作りに着手し、長岡京への遷都に取り掛かる。かつての道鏡(どうきょう)のような僧がまつりごとに介入してくることを避けるためとも云われる。
そして大和の都を離れ、新たに山城国へと遷都が行われたのである。

長岡と平安京と2度の遷都

遷都からほどなくの事、桓武天皇寵臣を次々に不幸が襲う事になる。まず桓武天皇寵臣で長岡京造宮長官の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺事件が起こってしまう。その事件の容疑者の中に歌人の大伴家持(おおともやのやかもち)と、皇太子であった早良新皇と共に淡路島へ流罪となったのだ。早良新皇は桓武の13歳年下の同母弟であるが、早良新皇は兄に無実を訴え断食を行い、流罪の途中で亡くなってしまった。
さらには都で疫病が大流行し、桓武の母や皇后までが相次いで亡くなってしまう。皇太子までもが原因不明の病気で亡くなってしまう。
陰陽師の占いにより、これらの出来事が全て早良新皇の祟りだという結論に至った為、桓武は遷都からわずか10年にして、再び遷都を行う事となったのだ。



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