奈良時代

奈良時代

奈良時代は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(現在の奈良県)に都が置かれた時代である。
平城時代ともいう。
仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。

目次

奈良時代

平城京への遷都

大化の改新を断行した中臣鎌足は藤原氏の祖である。
鎌足は死の前日に、天智天皇より藤原の姓と大臣の位を贈られる事で、後の藤原氏の地位を築いたのだ。
鎌足の子である藤原不比等は、右大臣として朝廷に努め、政治を行っている。
西暦710年、人口の増加により藤原京が手狭になった為、不比等は平城京への遷都を行うが、これは政権の力を誇示するためのものであった。

平城京、佐藤醇吉画

平城京、佐藤醇吉画

第一次大極殿

第一次大極殿
復元された奈良時代前半の大極殿
天皇の即位や元旦朝賀などの国家儀式や外国使節の歓迎儀式などが行われた
※奈良文化財研究所

奈良時代の駅路の構造

官道は、情報をもたらす緊急連絡網としてだけでなく、人や物資、税を中央政府へと運ぶ輸送路として利用された。奈良時代の道路の土木工事技術は非常に高かった。その工法は地面を掘り下げてから土砂を盛り、表面を粘土で固めるというもので、現在とほぼ同じ技術である。さらに道の両端には、雨対策として側溝まで設けられていた。

奈良時代の駅路(道路)の構造

奈良時代の駅路(道路)の構造

平城京内で藤原氏が躍進

不比等は権力基盤を固める為、天皇との外戚関係を築く事にも注力している。
不比等は娘の宮子を文武天皇の后にし、文武天皇の子の首皇子(おびとのみこ:聖武天皇)にも娘の光明を子嫁がせたのだ。
こうして藤原家の繁栄を礎を築いた不比等は720年に没した。

藤原不比等

藤原不比等

藤原氏の暗躍が対抗勢力の躍進を遮る

不比等の死後、政界の舵を執ったのは天武天皇の孫である長屋王だ。
長屋王は、不比等の死後に左大臣に昇進しているが、その権勢は長くは続かなかった。
729年の長屋王の変にて、不比等の子ども達である藤原四兄弟の策略によって、自害に追いやられてしまったのである。
>> 遷都の歴史

興福寺

興福寺
平城京遷都共に飛鳥から移された藤原氏の氏寺

奈良時代の食生活

平城京で市が開かれ、商いが発展

平城京では市が開かれ、日常的に商いが行われるようになっていた。
この頃の貴族の献立は下の写真のように豪華なものだった。
庶民の食事は玄米に茹でたノビル、汁に塩のみ。下級官人の場合はこれに魚や漬け物、酒がついた。

食事の回数は1日2食、庶民は1汁1菜

当時の食事の回数は1日2食。役所には、「大膳職」という給食センターの役割を担う役所があり、役人は大膳職が用意した給食を食べていた。
貴族の場合は15品、下級役人は7品だった。食事は1汁1菜の粗末なものだった。

貴族の食事(奈良文化財研究所)

貴族の食事(奈良文化財研究所)
長屋王邸から出土した木簡のひとつに献上品であるアワビにつけられた荷札がある。奈良時代の貴族の食卓には、このアワビやタイ、アユのほか、イノシシやシカの肉など、山海の珍味が並ぶ豪華なものだった

庶民の家は縄文以来の竪穴住居

下級官人もまだまだ貧しい

上級の官人である貴族たちには特権があったが、下級の者にはそんな恩恵はなかった。
彼らは生活のために、自分で口分田を耕していた。つまり、下級官人たちは、「半官半農」だったのである。

一般庶民の悲惨な生活

一般庶民(良民)は縄文時代以来の竪穴住居に住んでいた。
また、庶民の下には賤民がいた。賤民には、皇室の御陵を守る陵戸、官庁で使われていて家族を持つことができた官戸、許されなかった公奴婢、私有の賤民で家族を持てた家人と売買することができた私奴婢という「五色の賤」があり、悲惨な生活を強いられていた。

聖武天皇が国分寺・大仏を建てる

藤原4兄弟は権力を一手に掌握する事が出来たのだが、間もなく国内において天然痘が流行してしまう。
これは長屋王の祟りとも恐れられており、737年には藤原四兄弟は皆亡くなってしまったのだ。
藤原氏の勢いが衰えたところで、次は橘氏や吉備氏が政権を握るが、これに反発した九州・太宰府の藤原博嗣(ひろつぐ)が反乱を起こした。
当時の天皇であった聖武天皇は、混沌とする世の中を仏の力によって鎮める事を決意する。
全国各地に国分寺を作り、大仏造立の詔を発布したのであった。(この間、四年半ほどの間、聖武は遷都を繰り返した。)
大仏の完成後、聖武天皇は崩御したのであった。

奈良の大仏造立

奈良の大仏造立
260万人動員で財政パンクでも造立強行

「大和名所図会」より東大寺大仏殿

「大和名所図会」より東大寺大仏殿
※国立国会図書館

公地公民制の崩壊

大宝律令と班田収授法によって、農民に対して田が貸し与えられる事により、原則として人々に最低限の生活が保障される事となった。
しかし、年貢などの重税や、労役義務の負担、何よりあくまで借りた土地であり、いくら耕しても土地を子孫へ遺せない等の不満から逃亡したり、貴族や豪族たちの配下に入る者が後を絶たなかった。
そこで、未開の地を開拓すると子孫三代にわたってその土地が私有できる三世一身法(さんぜいっしんのほう)が、723年に成立したのだ。
これにより、新たな土地の開墾が捗り、田が増えて、より生活が豊かになったのである。
しかし、やはり三代目の孫の代の後は国に土地を差し出さなければならない為、私有期限が近づくと農民たちは土地を放棄して逃げ出す者が多く居たのであった。
>> 公地公民制の崩壊と荘園の発生

土地制度の変遷

土地制度の変遷 荘園が出来るまで

墾田永年私財法

743年、土地の無期限私有を許可する墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が成立した。現在でいうところの民衆の私有財産権を認めたのだ。
これは、単に三世一身法で問題となっていた土地の放棄を防止する為だけではなく、より開墾を促進させる事で、年貢による徴税を肥大化させる目的もあったのだ。
土地の私有を認める事で、すべての土地を国家の物とする公地公民制は崩壊してしまった。
有力者たちは、自身の土地の開墾に尽力しており、そのため一般の農民までも使って開墾を進めた為、元々農民たちが所有していた田が荒廃してしまう。
貴族や豪族たちは、そのような土地を集めて初期の荘園となっていくのであった。
>> 墾田永年私財法

天平神護二年越前国足羽郡道守村開田地図

天平神護二年越前国足羽郡道守村開田地図
現在の福井市市街地にあった越前国最大の荘園
上が北で、北半分は東大寺が占定した墾田地、南半分は生江東人から寄進された墾田地

桑原荘所の景観

桑原荘所の景観
越前国坂井群堀江郷(福井県あらわ市)にあった東大寺の初期荘園・桑原荘の想定復元図
※福井県立歴史博物館蔵

天平宝字三年越中国射水郡須加野地図

天平宝字三年越中国射水郡須加野地図
現在の富山県高岡市の小矢部川左岸と推定
※正倉院蔵

平安京への遷都

壬申の乱から約100年後、天武天皇系の天皇の大が続いていたが、女帝が相次いで、皇位を巡る陰謀が絶えず、藤原氏は危機感を抱いていた。
藤原百川(ももかわ)は天武天皇の兄であった天智天皇系への転換を図るため、光仁天皇を擁立した。そして、光仁天皇の子である桓武天皇が次に天皇として即位した後、平安京への遷都を果たしたのである。
桓武が即位したばかりの頃はとても政権基盤が弱かったため、政治への関与を画策する僧侶たちから離れる為、一旦、長岡京への遷都を行った。
しかし、これらの遷都は秘密裏に行われた為、多くの貴族らから反感を買ってしまった。
そして、長岡京の造営責任者であった藤原種継(たねつぐ)が反対派によって暗殺されてしまった。
さらに弟である早良親王が、種継暗殺の関与が疑われてしまい、早良親王は断食により亡くなってしまうのだ。
その後、桓武天皇の母と后が相次いで亡くなってしまう。弟の祟りを恐れた桓武は、長岡京から、もう一度遷都を行うことを決心する。
こうして、794年平安京へ遷都が行われたのであった。

朱雀門

復元された平城宮の正門・朱雀門
天皇による正月の祝い事や外国使節の送迎が行われた
※奈良文化財研究所

東院庭園

復元された東院庭園
東西80m、南北100mの敷地の中央に池が設けられ、周囲に建物が配置されていた
※奈良文化財研究所

平城宮跡全景

平城宮跡全景
※奈良文化財研究所

奈良時代の木簡

奈良時代の木簡
長屋王の館を特定させた「長屋親王館」の木簡
ペルシャ人役人の名前が記された木簡
役人の似顔絵
人を象った形代など

奈良時代の人物

桓武天皇

桓武天皇

千年の都、平安京を築く 桓武天皇(737〜806年)
光仁天皇の皇子。平安京の造営と遷都を行い、千年続く都の礎を築いた人物である。。東北地方の蝦夷の平定や宗教界の統制強化も行った。

桓武天皇


聖武天皇

聖武天皇(701〜756年)は奈良時代の第45代天皇。文武天皇の皇子で、母は藤原不比等の娘である宮子だ。不比等の娘である光明子を妃とした。
天皇に即位後は飢饉などの災いから国を守るために仏教の普及に尽力を尽くす。国分寺の制度を整えた後、盧舎那仏の造立を発願した。
国分寺を創建する間、恭仁京から難波宮、紫香楽宮へ平城京と幾度もの遷都を行ったと云われる。

聖武天皇


出典・参考資料(文献)

  • 『オールカラーでわかりやすい!日本史』西東社
  • 『山川 詳説日本史図録』山川出版社 編者:詳説日本史図録編集委員会

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