大宝律令は中国の律令を手本とし、日本の国情に合った本格的な法典が701年についに完成した。
当時の年号から大宝律令と呼ばれる。
「律」6巻、「令」11巻の全17巻からなり、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令である。
3世紀後半に成立したとされる大和王権は、氏姓制度を支配体制の要としていた。
しかし、「大化の改新」以降、遣唐使によって中国の律令制度が明らかにされ、日本でもこれを取り入れようとする動きが出てきた。
「律」とは刑法にあたり、「令」とは国家統治組織の規定や官吏の服務規程等を含んだ行政法一般を指す。
日本初の「令」は、天智天皇が668年に制定した「近江令(おうみりょう)」とされるが、原本が現存しない上に、「日本書紀」にも記述がないため、存在しなかったとする説もある。
天武天皇は、681年に律令制度を命じ、天武没後の689年に「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が施工された。
戸籍制度、地方制度、班田収授法などを制度化した、初の本格的な法典とされているが、こちらも原本は現存していない。
そのため、「律」が有ったか無かったも分かっておらず、不明な点が多い。
本格的な律令は、701年編纂の大宝律令、718年編纂の養老律令(ようろうりつりょう)である。
大宝律令の原文は現存していないが、養老律令の注釈書により、一部が復元されている。
唐の律令を模倣したが、当時の日本の実情に合うように修正が施された。
唐の律令制は「三省六部」を頂点とし、皇帝に直属する3つの省が、配下の六部を通じて詔勅(しょうちょく)を実施。
日本では、行政を司る太政官(だいじょうかん)と、祭祀を行う神祇官(じんぎかん)を明確に分け、太政官の下に8つの省を置く「二官八省(にかんはっしょう)」制が採用された。
また、唐の律令では、基本的に身分、その他がどのような者でも、官僚になる方法があった。
科挙(かきょ)という、現在でのいうところの国家試験だ。※ただし、採用されるのは全体の1%にも満たない競争率の高さだった
科挙を通じて学識が認められれば、官僚として採用されたのだ。
日本でも、平安時代に科挙が導入されているが、あまり長くは続かなかった。
日本には独自の「蔭位の制」と呼ばれる例外規定が設けられており、高位の貴族は、世襲により、子弟には必ず官位が与えられていた。
そのため、受験者の大半は下級貴族で、合格者が中級貴族に進める程度であり、高位の貴族には殆ど浸透しなかったのだ。
(庶民から貴族にまでなった人物として勇山文継が知られている)
その後、律令制の崩壊とともに廃れ、院政期から官職の世襲制化が進み、後に消滅してしまった。
科挙が日本の歴史に及ぼした影響は少なかったようだ。