日本では、古来から時代に合わせて、何度も遷都を行い、国の政治の中心地が移ってきた。
初めは、天皇の住まいである「宮(みや)」、そして、次第に計画都市をもった「京(みやこ)」が造られていいく。
>> 遷都の年表
694年、飛鳥地方の北部に藤原京が完成した。
中国の長安城を模範に設計された、日本初の本格的な計画都市で、以後、日本には平城京や平安京など、藤原京を基に、さらに発展した都市が首都として、建築されていった。
そして、2016年、現在の日本の首都は東京である。
遷都から70年が経過した平城京では、都市開発が進んでいった結果、仏教勢力が力を持ち、政治への干渉をも行い始めていた。
朝廷の権威回復に燃える天智天皇系の桓武天皇は、新都の造営を決意、遷都を断行する。
770年、聖武天皇を父に持つ女帝・称徳天皇が崩御した。
独り身だった称徳に跡継ぎがいなかった事もあり、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が擁立された。
壬申の乱後、100年に渡り天武天皇系の皇族が即位していたが、天智系が皇位に返り咲いたのである。
781年に即位した光仁天皇の子、桓武天皇は、道鏡の専横で混乱した政治を立て直す為、旧来の仏教勢力の排除を画策する。
また、水運の便を求めて、784年、山背国の長岡京へ遷都した。
しかし、翌785年、長岡京の造宮使だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺される。
さらに、この事件に関与したとして、桓武の弟で皇太子の早良親王が廃太子となり、憤死した。
その後、洪水や疫病が相次いだ為、早良親王の祟りだとの噂が広まり、人心は不安定になってしまう。
こうして794年、再び遷都が行われる。
新都は「平安楽土」になるよう願いを込め、「平安京」と名付けられた。
王城の地「山背」の国名も「山城」と改められる事になった。
古来、天皇に住居である「宮」は、一代限りで移転するのが習慣であった。
690年に即位した第41代 持統天皇は、中国を手本とした中央集権国家建設を推進する為、694年に藤原京へ遷都した。
藤原京は、「宮」の周囲に計画的な市街地を配置した「京」と呼ばれる都市で、初の本格的な都とされる。
後の平城京などと異なり、藤原京では「宮」が「京」の中央に配置され、持統、文武、元明と、3代の天皇の都となった。
710年、持統天皇の異母妹にあたる元明天皇は、奈良盆地の北限に位置する平城京へと遷都した。
平城京は南北4.8q、東西4.3kmに及び、北東に張り出した外京(げきょう)と呼ばれる区域が特徴である。
平城京内には多くの大寺院が建立され、のち桓武天皇による長岡京遷都(&平安京遷都)の一因になった。
平城京には官営の市も開かれていたが、経済の中心は各国から運搬される庸(よう)・調(ちょう)などの律令制下での税だった。
それを可能にしたのは、平城京を中心に全国に配備された官道(かんどう)で、物品の輸送の他、軍隊の移動にも大きく役立った。
聖徳太子が摂政を務めた第33代の推古天皇以降、殆どの天皇は飛鳥地方に宮を設置した。
乙巳の変でのクーデータで政権を執った天智天皇は宮を近江の大津宮(おおつのみや)へ移したが、この遷都には反対も多く、壬申の乱に勝利した天武天皇は、再び飛鳥の地に遷都、飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)を造営した。
浄御原宮のあった場所ははっきりとわからず、長年の間、謎に包まれていた。
しかし、近年になって、乙巳の変の舞台となった飛鳥板葺宮(いたぶきのみや)の跡地に造営されたとする説が有力になっている。
遷都年 | 都 | 天皇 |
---|---|---|
643年 | 飛鳥板葺宮 | 皇極天皇 |
645年 | 難波長柄豊崎宮 | 孝徳天皇 |
655年 | 飛鳥宮 | 斉明天皇(皇極天皇) |
667年 | 近江大津宮 | 天智天皇 |
672年 | 飛鳥浄御原宮 | 天武天皇 |
694年 | 藤原京 | 持統天皇 |
710年 | 平城京 | 元明天皇 |
740〜745年 | 恭仁京、難波宮、紫香楽宮、平城京 | 聖武天皇 |
784年 | 長岡京 | 桓武天皇 |
794年 | 平安京 | 桓武天皇 |
※聖武天皇が何度も遷都を行っているのは、彼を何度も襲った苦悩の結果、神仏の力を求め彷徨ったなどといわれる。