平城京遷都

平城京へ遷都

全国支配に適した交通に便利な奈良が選ばれ平城京が建設された。
しかし、平城京は暮らしやすさより風水重視という偏りもみられ、その歴史は長くはなかった。
このページでは、何故、どうして平城京への遷都が行われたのか見てみる。

平城京、佐藤醇吉画

平城京、佐藤醇吉画

藤原京からの遷都

永続的な都を目指して建設された藤原京だったが、僅か14年でその歴史を閉じる。
和銅3年(710年)、奈良に新都・平城京が建設され、元明天皇を始め、統治機構と役人・貴族が移転したからだ。
これ以降、都を平安京に移すまでの約80年間を「奈良時代」と呼ぶ。

藤原京と平城京の位置

藤原京と平城京の位置

風水的な土地の良さ

遷都の理由は第一に、風水的な土地の良さが上げられる。
和銅元年(708年)の遷都の詔に「平城の地は四神(青竜・白虎・朱雀・玄武)が東西南北に位置し、香具・耳梨・畝傍の三山を南の鎮めとし、地相もめでたい」とる。
四神が完璧に配置され、地相にも恵まれた最良の土地だと考えられたからだ。
中国古来の陰陽五行思想によれば、東の川を青竜、西の道を白虎、南の池を朱雀、北の山を玄武に配する。
平城の地は四神が適切に四方を固めているという。

高句麗の墓の壁に描かれた青龍

高句麗の墓の壁に描かれた青龍

疾病や飢饉を遷都で脱する

第二に、文武天皇代の後半、全国的に疾病や飢饉が蔓延し、人心が荒廃した。
遷都を切っ掛けに、福を招き、災いを払おうとする呪術的な発想があったからだ。

日本全土の状況に合わせ首都を動かす

この時代、日本各地は各地が急速に発展

8世紀初め、日本は支配領域を大きく拡大した。
東北地方では、陸奥国と越後国から一部を分割して出羽国を設置し、政府の出先機関である出羽柵、多賀柵(後の多賀城)を設けた。
また、九州でも、日向国の一部を新たに大隅国として設置。
南方の種子島、屋久島、奄美大島なども支配下に組み入れた。
それと共に産業の振興を進め、稲の他、粟、麦、豆などの増産を命じ、陸奥の金、周防・長門の銅、近江・美作の鉄などの開発にも取り組んだ。

初の貨幣 和同開珎

慶雲5年(708年)には武蔵国から銅を産出した事から、年号を和銅と改め、「和同開珎(わどうかいちん)」という銭貨を発行した。
それだけ物流の流通量が増えており、物資のやり取りが簡単に出来る貨幣へのニーズは、際立っていたのだ。
当然、全国からお金や物が集まる都には相応の規模が求められた。

和同開珎

和同開珎

遷都には有能な人材が投入される

慶雲5年9月、元明天皇は奈良の新都建設予定地を視察する。
そして、帰京後すぐに中納言・阿部宿奈麻呂(あべのすくなまろ)、民部卿・多治比池守(たじひいけもり)の2人を長官とする、遷都プロジェクト(造平城京司)を立ち上げた。
首脳部は長官の他、次官3人、判官7人、主典4人、大匠(技術責任者)1人からなる大規模プロジェクトだった。

安全な遷都を祈願

10月には宮内卿の犬上王(いぬがみおう)を伊勢神宮に派遣し、神前に新都造営を報告した。
そして犬上王の帰京を待って、12月には地鎮祭が行われた。
元明天皇は和銅2年(709年)にも、8月と12月の2回に渡って平城を訪れ、進行状況をチェックする等熱心に取り組んだ。

平城京への遷都完了

碁盤の目状に整然と区画された新都へ移転したのは、和銅3年(710年)3月10日。
アクシデントに備え、藤原京には左大臣・石上麻呂(いそのかみのまろ)を残し留守官とした。


↑ページTOPへ