聖徳太子(574〜622年)は飛鳥時代、用明天皇の皇子であり、推古天皇の摂政で 厩戸皇子(うまやどのおうじ)のなでも知られる。
聖徳太子が摂政となったのは20歳の時で、日本で初めての女性天皇である推古天皇の時代であった。
冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣による隋との国交の開始など数多の功績を持つ伝説の摂政だ。
さらに法隆寺や四天王寺などを建立して、仏教の布教による国内の統一にも尽力した。
近年では、1930年の100円札として登場して以来、長らく紙幣の顔として国人に親しまれており、日本史上の中でも特に知名度の高い人物である。
古代中国で誕生した大国の隋に遣隋使を送って国交を求めた。太子は日本を隋の属国としてではなく、あくまで対等な国交を求めたのだ。
遣隋使は2度派遣されるが、一度目は失敗してしまう。
一度目の派遣した時、日本の国司は正式な国書を持っていなかったのである。それで隋に国が出来上がっていないと思われてしまった為、国交を拒まれてしまったのだ。
そこで聖徳太子は、二度目の遣隋使ではきちんと国書を持たせて小野妹子を派遣した。
小野妹子が持っていた国書の「日いづる処の天子、日没する処の天子に致す」の件に隋の皇帝・煬帝はとても怒ったという。
「天子」は世界に我一人という事であろう。
しかし、隋は小野妹子が公式の官位を持つ使節であったため、倭国が官僚制度を整えている事を知った。
そして、外交交渉が可能だと考えた為、倭国との国交を行うと決定した。
※高句麗との戦争を控えていた為、倭国を敵にすることは出来なかったとも云われる。
朝廷内の序列を示す最初の制度である。
この制度により、各地の豪族たちを国家の官僚としてまとめる事を狙った。
12階の位階は冠の色で上下関係が決められている。
十二階の中にも上下関係が生まれる事で、必然的に出世という概念が生まれた。その為、戦以外での方法でも権力の向上が望むことが出来るようになるのである。
日本最初の成文法の事。官僚となった豪族たちに守るべき道徳規範を17カ条にまとめて記してある。
※憲法十七条は後世により、改変が行われた可能性がある。
小野妹子を国司・遣隋使として、大陸の隋に派遣して国交を行った。これにより、先進国の様々な文化な文物を輸入した。
仏典の注釈書である「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著し、さらに法隆寺、四天王寺などの造営を行った。
太子は母親の胎内に救世観音が入って来て身ごもり、厩の間で生まれたと云われる。
※仏教でのブッダ出生時の逸話や、中国経由で伝来してきたキリスト教の神話などに酷似しているため、その影響が考えられる。
一度に十人もの人々の訴えを同時に聞くことが出来たと云われる。これに伴い「豊聡耳(とよとみみ)」と呼ばれるようになった。
※豊臣秀吉の本姓である「豊臣」はこの「豊聡耳」から付けられたという異説もある。
「日本書紀」において「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす)」と記されており、「未来記」という予言書を残したとも云われる。
※単に先見の明があったという事であろう。
諸国から推古天皇に献上された数百頭の馬の中かから神の馬を見抜き、太子がその馬に乗ると、空を翔けたという。
太子が14歳の時、蘇我軍が物部氏との合戦で苦戦していると、太子がヌルデの木で四天王像を作り、合戦に勝利できればその四天王を安置する寺院を建てると誓うと、見事に蘇我氏が勝利したという。
その後、四天王寺を建立したと云われる。
飛鳥寺の聖徳太子立像
聖徳太子については実在しなかったのではないかという説がある。
蘇我氏系の王族である厩戸皇子は存在したが、推古天皇の摂政として政治を行った聖徳太子はいなかった、というモノである。
この説によると、『日本書紀』の編者が聖徳太子という架空の聖人を創り上げ、後に滅ぼされた蘇我氏の政治改革を聖徳太子(推古天皇の摂政)の功績に変えてしまった、というのだ。
聖徳太子の輝かしい功績が“実は蘇我の功績であった”というならば、その太子が“推古天皇の摂政”であれば、間接的にその功績は天皇の功績という事になる。
厩戸皇子は奈良時代、仏教をもたらした人物として崇拝され、聖徳太子と呼ばれていた。
政治改革を行ったとされる『聖徳太子』が仮にいなかったにせよ、仏教を奨励した『厩戸皇子』という人物は実在したのではなかろうか。