鎌倉時代

鎌倉時代

鎌倉時代は西暦1185年から1333年までの時代を指す。源頼朝が平家を滅ぼすことで、政治の実権が平家から源氏に移った年が1185年で、後醍醐天皇の命により、新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされた1333年である。関東の鎌倉が政治の中心であったことから、鎌倉時代と称される。

源平盛衰記(駿河国富士川合戦)

源平盛衰記(駿河国富士川合戦)
歌川国芳画 都立中央図書館特別文庫室蔵

鎌倉時代の出来事

頼朝の妻、北条政子

武士として初めて征夷大将軍に就任した源頼朝であるが、彼は1199年に落馬によって亡くなった
頼朝は晩年、朝廷との協調を目指す為、自分の娘を後鳥羽天皇に嫁がせようとしたのだが、これに反対した御家人の存在が指摘され、しばしば頼朝は暗殺されたのではないかとする説もある。
頼朝の死後、幕府では後継者を巡る権力闘争が始まってしまう。
この時、主導権を握っていたのは頼朝の妻であった北条政子や、その父である北条時政であった。
頼朝なき幕府にはカリスマ性を持つリーダーがいなかった為、重臣たちによる13人の合議制によって政治が行われる事になった。
頼朝には子の頼家と実朝が居たがまだ若く、また頼家の乳母と妻が比企氏であった為、北条側が比企氏に政権が奪われる事を危惧したとも思われる。
同時期、頼朝に忠実な御家人であった梶原景時(かじわらかげとき)も幕府を追放されている。

鎌倉幕府は、執権の北条氏が実権を握る

頼家は二代目将軍に就寝したが、政子と時政は比企氏を排除する為、頼家の後継者問題にも関与した。
結果、比企氏と頼家は北条氏によって滅ぼされてしまい、頼家の弟である実朝が三代目将軍に就任し、北条時政が執権となり幕府の実権を握ったのである。
時政はその後、実朝をも退けようと考えるが、これは政子らに反対されてしまった為、これを期に時政は政界を去る事となった。
時政の後を継いで執権となったのは、時政の次男であり政子の弟の義時(よしとき)であった。
義時は執権就任後、侍所別当の和田義盛(よしもり)を滅ぼしており、これにより幕府の実権は北条家が一挙に握る事となったのである。

北条征伐に動いた後鳥羽上皇

後白河法皇の死後、再び院政を始めた後鳥羽上皇は、様々な強権を発揮し専制体制を行い始める。
鎌倉幕府の成立後、幕府と朝廷の対立が徐々に深まっていく事となり、ついに後鳥羽上皇は倒幕活動、つまり北条氏の征伐に動き出す事となった。
後鳥羽が北条氏を滅ぼす切っ掛けとなったのは、源実朝の暗殺事件であったといわれる。
実朝は公家文化に理解を示していた将軍であったのだが、義家の子の公暁(くぎょう)に殺害されてしまったのだ。※その公暁も後に殺害された。
実朝には子がいなかった為、北条氏は後鳥羽上皇の子を将軍職に就任させる密約を結んでいたのだ。
しかし、後鳥羽上皇はこれを反故にして、北条氏討伐の院宣を出してしまうのである。

政子の演説が、御家人たちの心動かした

幕府の御家人たちは、北条征伐の院宣が出された事に大変動揺したとされ、朝廷側に付く御家人が大勢出ることが危惧された。
当時の日本社会において、日本全土を統治する朝廷と天皇は絶対的な権威を持っており、その朝廷と対立する事は、武士たちにとっては大変な恐怖であったのだ。
そこで、北条政子は御家人たちを集め、演説を行った。
自分たち御家人の地位を築いたのは初代幕府の将軍であった頼朝である事を改めて思い出させ、理不尽な要求を突き付けてくる朝廷と戦う事を諭したのだ。
後鳥羽上皇は逆臣たちの讒言に惑わされている為、その逆臣たちを討つために、と御家人たちに都へ攻め上がる事を決意させる事が出来たのでった。

承久の乱で敗北した朝廷は、権威が衰える

そして1221年5月、鎌倉幕府軍と朝廷の戦いである「承久の乱(じょうきゅうのらん)」が勃発した。
北条義時の子である北条泰時(やすとき)や、義時の弟である時房(ときふさ)らが京を攻め、僅か一ヶ月ほどで幕府軍の圧勝で乱は終結するのである。
義時は後鳥羽上皇に近い天皇を退け、後堀川天皇を即位させた。
朝廷軍を率いた後鳥羽上皇順徳天皇は日本各地へ配流される事となり、乱に関わった貴族たちは処刑される事となった。
これは日本史上で稀に見る出来事である。
さらに上皇らの領地は没収される事となり、幕府の御家人たちに功績として与えられのだ。
この時、朝廷が奪われた領地は3000ヵ所ほどであり、膨大な領地が幕府の物となった為、朝廷の権威は大きく失墜する事となってしまった。
>> 承久の乱と朝廷の敗北

北条氏の集団指導体制

承久の乱の後、京都守護は六波羅探題に格上げされ、朝廷の監視や西国の御家人の統括が強化された。
義時が亡くなると、この泰時が三代目執権として就任する事となる。
泰時は北条氏の権力基盤を固める為、様々な政治戦略を行っていく。
連署(れんしょ)と評定衆(ひょうじょうしゅう)などの新たな役職を定め、北条氏と有力御家人たちが一眼となって意見を出し合える集団指導体制を築いたのだ。
また、幕府の全国支配が進むにつれて、各地の土地などを巡る問題が発生していくようになった為、御成敗式目を定めた。
御成敗式目とは、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された法典である。
この後、引付衆(ひきつけしゅう)と呼ばれる所領を巡る争いを専門とした役職も設置される事となる。

御成敗式目

御成敗式目 鶴岡本

御成敗式目 第十六条

御成敗式目 第十六条

皇族が将軍となる親王将軍

鎌倉幕府を開いたのは頼朝であるが、三代目の実朝が殺害された事で頼朝直系の血筋が途絶えてしまった。
しかし鎌倉幕府の将軍は、三代目で途絶えた訳ではなく、四代目以降も存在していたのだ。
四代将軍に就任したのは藤原頼経(よりつね)で、摂家から迎えられた将軍となった摂家将軍である。五代目将軍も同じく摂家より迎えられた藤原頼嗣(よりつぐ)だ。
しかし、四代・五代目ともに執権略奪を画策する勢力と結ぶ付いた事により、結局は将軍職を廃されてしまう。
この時、北条氏が求めていた将軍とは、頼朝のように自身が政治を司るタイプの将軍ではなく、現代における天皇陛下のように、国家統一の指針となる象徴としての将軍であった。
朝廷と幕府、両方から受け入れらえる将軍でなければ駄目だという事だ。
そこで、六代目の将軍に就任したのが後嵯峨天皇(ごさがてんのう)の子である宗尊親王(むなたかしんのう)であった。
皇族での初めて宗尊親王が征夷大将軍となった事で、将軍職の安定に成功し、これ以降は親王将軍が定着する事となったのだ。

戦が終わると武士は貧しくなる

承久の乱以降、平和な世が続いていくが、鎌倉時代中期に入ると、その平和が武士たちの生活を追い詰める事となっていく。
当時の武士社会では、惣領(そうりょう)と呼ばれる家長が、子弟に土地を与える分割相続が行われていた。
しかし、この所領とは元々、戦で戦功をあげた功績として獲得していく物である。
よって、戦のない平和な世では、世代を重ねる毎に、徐々に領地が減っていく事とになるのである。
そのため、領地をあまり持たない貧しい御家人たちが増えていくという、負の連鎖が発生していくのだ。

元寇の襲来

武士の生活が苦しくなる中、幕府にとって危機的な状況が発生する。
二度に及ぶ元寇、モンゴル帝国の侵略である。
大陸に絶大な勢力を誇るモンゴル帝国が成立し、皇帝であるクビライが日本へ国書を持たせた使節を送ってくるのだ。
これは日本へモンゴル帝国の属国となる事を迫るものであった。
当時の執権であった北条時宗は、この国書に返答を送らず、モンゴル帝国の属国となる事を拒否したのだ。
これにより、激怒したクビライが軍隊を派遣した、一度目の戦いが文永の役(1274年)である。
この戦いは日本にとって初めての外国からの侵略戦争であり、幕府は一切の外交政策や情報集などを行っていなかった。
日本軍は多大な苦戦を強いられる事になったが、辛うじて元軍を撤退させることに成功した。
二度目の襲来の弘安の役(1281年)では、事前に日本側が大きな石塁を築く事で戦いを優位に進める事が出来た。
さらに「神風」といわれる暴風雨によって、元軍は壊滅するのであった。

文永の役の鳥飼潟の戦い「蒙古襲来絵詞」

文永の役の鳥飼潟の戦い「蒙古襲来絵詞」

戦争には勝ったが、御家人の不満が増大する

辛うじて、国家の危機を乗り切った鎌倉幕府であったが、戦後に大きな問題が発生する事となる。
戦に勝てば戦功として所領を贈るのが、この時代の習わしであったが、敵が外国勢力であった為、肝心の土地が得られなかったのだ。
これにより御家人たちの不満が増大する事となり、幕府と御家人たちとの主従関係に大きな歪を生む結果となってしまったのである。

後醍醐天皇の倒幕

鎌倉幕府の治世が及ばなくなってきた頃、朝廷では後嵯峨上皇が後継者を決めぬままに亡くなってしまい、二つの系統が皇位を争う事となってしまう。
地方では農民たちの抵抗運動も活発になってきており、領主に逆らう「悪党」と呼ばれる者たちが多く出現する。
国内の秩序が乱れており、新たな大乱を予感させる事態となって来ていた。
幕府が朝廷に両統交互に即位する事を進言した翌年、後醍醐天皇が即位する事になる。
後醍醐天皇は政治に対し、積極的に取り掛かっており、倒幕運動にも乗り出すのである。
しかし、後醍醐の倒幕計画は幕府に漏れてしまう。
この後醍醐の動きを危険視した鎌倉幕府は、後醍醐を隠岐へ配流とした上、その近臣たちは斬首という重い刑に処したのであった。

太平記絵詞

太平記絵詞 節度使下向事
関東で反旗を翻した足利尊氏を討伐する為に、出陣する新田義貞の様子を描く

足利尊氏、新田義貞らも倒幕に動く

しかし、倒幕を志す者たちは朝廷だけではなく、悪党たちも鎌倉幕府を討つ為、挙兵する。
これを好機と見た後醍醐天皇は隠岐を脱出し、再び倒幕活動を開始したのである。
これを察した幕府は、幕臣であった足利尊氏を討伐に派遣するが、尊氏は天皇側に寝返ってしまう。
そして、尊氏は六波羅探題の攻略、時を同じく挙兵した新田義貞は鎌倉を攻略する。
これによって鎌倉幕府は滅亡する事となったのである。
>> 鎌倉幕府の滅亡

建武の新政

鎌倉幕府を倒す事に成功した後醍醐天皇であったが、彼の目的は武士集団とは相容れぬものであった。
後醍醐は幕府創立以降の武士政権を否定し、それ以前の朝廷による国内支配の政治を行う事だったのだ。
かつて平安時代の醍醐天皇(だいご)が摂政・関白を置かずに自ら政治を執る親政を目指したのである。
後醍醐天皇は「建武の新政」といわれる様々な改革を断固するが、これは頼朝以降の武士政権を望む武士たちから大きな反感を買ってしまう。

後醍醐天皇象

後醍醐天皇象

鎌倉時代の人物

後醍醐天皇

後醍醐天皇(1288〜1339年)は1318年に大覚寺統の天皇として即位した、第96代の天皇。院政を廃して親政を開始する事で、天皇権限強化に努めた。鎌倉幕府倒幕計画に一度は失敗するが、反幕府勢力を再結集する事で倒幕に成功する。その後、建武の新政を開始するが、全国各地の武士たちの不満を募らせる結果となってしまい失敗し、南北朝の内乱が始まってしまう。

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楠木正成

楠木正成

楠木正成(?〜1336年)は鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した武将。
後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵し、鎌倉幕府と戦い勝利した。
鎌倉幕府の滅亡後に建武の新政より離脱した足利尊氏の軍と湊川にて戦ったが、敗北し自害した。

http://rekishi-memo.net/kamakurajidai/kusunokimasashige.html


北条時宗

北条時宗

北条時宗(1251〜1284年)は鎌倉幕府の8代目執権。名君として名高い5代目執権の北条時頼の次男であり、北条氏の嫡流として、若くして執権となった。元・モンゴル帝国による二度もの日本侵略である蒙古襲来(元寇)を九州北部にて防衛した鎌倉時代最大の英雄である。

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(1220〜1272年)は第88第天皇。
後深草天皇、亀山天皇の父にあたる。
後の南北朝分裂の原因を作りだしてしまった。

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北条泰時

北条泰時

北条泰時(1183〜1242年)は初代六波羅探題で鎌倉3代執権、源頼朝の妻である北条政子の甥である。
承久の乱(1221年)において総大将として活躍し、見事に幕府軍を勝利へと導いた。
1224年に父の北条義時の死後、鎌倉幕府の執権として就任する。

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順徳天皇

順徳天皇

第84代 順徳天皇(1197〜1242年)は鎌倉時代に初期の天皇。後鳥羽上皇の皇子にあたり、父と共に承久の乱において鎌倉幕府を戦うを敗北し、佐渡に配流されてしまった。
しかし優れた書物を後世に残している。

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後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇(1180〜1239年)は第82第天皇。
平安時代の末期から鎌倉時代初期の人物である。承久の乱を引き起こして鎌倉幕府と対立し、配流となった。
三種の神器を用いずに天皇に即位した事でも知られる。

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北条政子

北条政子

北条政子(1157〜1225年)は北条時政の娘で、源頼朝の正室。
平治の乱後、流刑とされたていた頼朝と夫婦となった。
鎌倉幕府の成立から発展まで頼朝に尽くし、頼朝の死後は尼将軍として自身が幕府を支えた。

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源頼朝

源頼朝

源頼朝は初めて東国の地、鎌倉に幕府という本格的に武士政権を開いた将軍の祖である。
幕府が成立した後は、1199年に落馬で亡くなってしまった。
頼朝の没後は、妻の北条政子らが政治を引き継いだ。

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