元寇

二度に及ぶモンゴル帝国の襲来

13世紀初頭、ユーラシア大陸の大部分を勢力図に治めた世界最大の帝国、モンゴル帝国が出現する。
そして1274年、モンゴル帝国はついに日本への侵略を開始した。
この未曾有の外圧に対抗する為、鎌倉幕府の8代執権北条時宗は、日本全国の武士団を団結させ、モンゴル帝国に戦いを挑んだ。
二度に及ぶ襲撃に対し幕府軍は、苦戦の末に撃退に成功する。
しかし、このモンゴル帝国との戦いを契機に、幕府は崩壊への道を進む事になる。

チンギス・ハンの大モンゴル帝国

北条氏が幕府の掌握しつつある頃、海の向こうのユーラシア大陸では、誕生して間もないモンゴル帝国が周辺の国への侵攻を開始していた。
モンゴル帝国の始祖 チンギス・ハンは、1206年にモンゴル高原を統一する。
1219年には西方への大遠征を行って、獲得した領土を子や弟らに分け与えていた。
第2代のオゴタイは、金を滅ぼして淮河(わいが)以北の中国を占領した。
第5代のフビライのときに、国号を「」とした。

フビライは朝鮮半島の高麗を武力で服属させたほか、1276年には南宋を滅ぼして中国全土を征服し、世界最大の帝国を築き上げた。
しかし、日本への遠征は激しい抵抗にあい、大きな成果を上げられなかった。

苦戦の末、元軍を撃退した幕府

一度目の戦い 文永の役(1274年)

8代執権北条時宗は、服属を要求する元の勧告を強硬に断った
1274年、高麗軍を含む元軍約3万が九州北部、現在の福岡県の博多湾に襲来する。
元軍の集団戦法や「てつはう」と呼ばれる火器など、日本とは全く異なった戦術を得意としていた。
元軍の統制のとれた戦術に対して、日本軍は一騎打ち戦法で挑んでおり、非常に苦しい戦いを強いられる。
しかし、元軍は暴風雨により退却を呼びなくされた。
この戦いの後、幕府は異国警固番役の教化、博多湾沿いに、幅・高さ2m、総延長20kmに及ぶ巨大な防塁・石塁の構築などを行っており、2度目の襲撃に備えた。

二度目の戦い 弘安の役(1281年)

一度目の襲来から7年後の1281年、元軍は総勢14万ともいわれる大軍で襲来する。
しかし、この戦いは意外にも、日本側の圧勝に終わったという。
元軍は総攻撃の直前に、台風に直面、壊滅的打撃を受けてしまっていた。

元軍の敗因とは

元の日本征服計画が失敗したのは、様々な要因があった。
そもそも元軍が海戦に不慣れだったこと、出撃基地となった朝鮮半島で高麗に様々な形で抵抗された事、武士団が事前準備が功を成した事もあり奮戦した事、そして、元軍が暴風雨に遭遇した事などが原因である。

幕府は勝利したが、得る物はなかった

元は、2度の失敗で日本侵攻を諦めた訳ではなかった。
仮に諦めていたとしても、当の鎌倉幕府には、それを確認する方法もない。
よって幕府は来ないかもしれない3度目の襲来に対し、時期の予測も出来ないまま、沿岸の警備を続けなければならなかった。
戦いによって、多大な労力を消費した幕府だったが、さらなる襲来に備える必要もあった為、幕府の財政は著しく悪化してしまう。


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