足利尊氏

政権を再び源氏へ 足利尊氏

足利尊氏

元々は幕府方であったが、後醍醐天皇に付く

足利尊氏は、清和源氏の流れをくむ室町幕府の初代征夷大将軍となる武士であるが、元々は鎌倉幕府の有力御家人であった。下野足利氏の嫡流としてこの世に生を受けた尊氏は、当初は後醍醐天皇の鎌倉幕府の倒幕を阻止する為に幕府軍を率いて上洛する。
しかし、丹波国篠村八幡宮にて幕府への叛乱を宣言し、後醍醐天皇と共に倒幕に動き出す(尊氏が鎌倉幕府を裏切った理由は諸説あり、判明はしていない)。そして、1333年には京都の六波羅探題を攻略し陥落させることに成功した。
同時期に幕府の本拠である鎌倉は、尊氏と同じく御家人であった新田貞義(にったさだよし)によって攻略されており、鎌倉幕府は150年間の歴史に幕を閉じる事となった。

倒幕後、尊氏と後醍醐天皇の溝が深まる

倒幕後、後醍醐天皇は建武の新政を開始する。尊氏は後醍醐天皇の信任を得ていた為、厚い待遇を受ける事となった。しかし、建武の新政は、鎌倉幕府の創立以降、武士が中心となっていた世を再び朝廷と公家中心の世に戻そうとするものだった為、尊氏は政権の中枢からは遠ざけられてしまう
結果として、建武の新政は全国各地の武士の不満を買うこと事なってしまった為、尊氏と後醍醐天皇の関係にも歪が生まれる事となってしまう。

武家の不満を受け、恩賞を与える

鎌倉幕府の滅亡から2年後の1335年、尊氏は北条氏の残党を討伐する為に再び鎌倉へと出陣する事となった。無事、北条氏の残党の討伐に成功したが、この戦は朝廷の宣旨(せんじ)を受けていなかった為、さらに後醍醐天皇との溝を深める事となってしまう。
その後、尊氏は朝廷より都へ帰るよう指示を受けるのだが、尊氏はこれを了承せずに鎌倉に残り、功の有った武士へ勝手に恩賞を与えてしまうのだった。これに激怒した後醍醐天皇は遂に尊氏の討伐を決意した。

将軍となり、新たに幕府を建てる

朝敵となってしまった尊氏は、一時は出家を決意し、寺に引きこもってしまうのだが、後に覚悟を決め後醍醐天皇と戦う事とになる。
足利軍は朝廷軍である新田貞義との戦いに勝利し、上洛に成功するが、その後、敗北してしまい、一度九州まで配送する事となってしまう。しかし日本全国各地の武士からの支持を受けた尊氏は、20万にも及ぶ大軍勢を率いて進軍し、後醍醐天皇に勝利する。
後醍醐天皇を吉野へと退けた尊氏は光明天皇を譲位させ、1338年に征夷大将軍となって幕府を開いた。



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