卑弥呼

邪馬台国の女王 卑弥呼

卑弥呼

中国の歴史書に記された女王

卑弥呼は弥生時代後期から古墳時代前期に掛けて邪馬台国を収めた倭国の女王である。
しかし、卑弥呼に関しての記述がある歴史資料は、日本の歴史書には全く存在しない
卑弥呼の存在は、当時の中国の歴史書である「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にのみ記されている。
当時の倭国(日本の事)は大陸より様々な先進技術が伝来しており、少なからず国家間においての外交も行われていたのだ。
魏志倭人伝に記述されている倭国の様子はわずか、2000文字ほどしかないが、発掘調査による考古学資料から、様々な事が分かってきている。

鬼道によって、国を治める

魏志倭人伝によると、2世紀の後半に倭国では大変大きな戦乱が起こっていた。
その頃の邪馬台国は大小30カ国ほどの国々が争っており、卑弥呼が女王として即位した事により戦乱は鎮まったとされる。
なぜ、卑弥呼が女王となったのかなど、肝心な部分には多く謎が残されている。
倭人伝には卑弥呼は「年すでに長大」とあり、史料の他の部分から推測すると25歳前後ではなかった思われる。
夫は持たず、神に仕える巫女であった。
当時、論理的な統治による政治は行われておらず、卑弥呼は「鬼道(きどう)」と呼ばれる呪術によって、神のお告げを聞く事で国を治めていたようだ。


祭祀の様子(復元模型)

祭祀の様子(復元模型)
佐賀県教育委員会提供(吉野ケ里遺跡)

再現された卑弥呼の食事

再現された卑弥呼の食事
前列中央に、弥生時代の米の主流である赤米の強飯がある

卑弥呼には弟がいた

卑弥呼には弟がおり、国政を補佐していた。
両者には「祀り」と「政り」とが分担して行われていたようだ。
おそらく卑弥呼は、女王となって以降は宮殿に入った切りで、人前には姿を見せなかったと思われる。
多く発掘されている鏡などから、神との対話を行える神秘的な存在であるというアピールだったのかもしれない。

謎の多い死

卑弥呼は半世紀もの長い期間、倭国を治めていたが、その死は非常に謎が多い。
当時、邪馬台国は男王「卑弥弓呼(ひみここ)」が治める狗奴国(くなこく)と争っていた。
その戦いの最中に卑弥呼は亡くなっているのだ。
史料には卑弥呼の死は「卑弥呼、以て死す」と記されているのみである。
当時の中国の歴史書では、「以て死す」とは天候不順などから起こる飢饉などの責任を取って殺害されている場合が多い。
卑弥呼もその例外ではなく、狗奴国との敗戦によって、その鬼道の力の衰えを疑われ、殺害されたのかもしれない。
※当時の倭国には「持哀(じさい)」という航海を行う際に安全を願う生贄に近い役割があった。航海が上手く行かなかった場合は、責任を取るため処刑されていたのだ。

魏志倭人伝 卑弥呼の死の記述

魏志倭人伝 卑弥呼の死の記述
宮内庁提供

13歳の若い女王が即位

卑弥呼の死後、屋台骨を失った倭国内の平穏は乱れてしまう。
卑弥呼に次いで、男の王が即位するが国中が服さず、1000人もの死者を出すほどの大混乱が起きしまう。
この混乱を鎮めるため、台与(とよ・いよ)という卑弥呼と同じ血筋を持つ13歳の若い女王が即位した
この後、邪馬台国は無事に平穏を取り戻している。
そして、台与は20人もの使者を魏、および晋王朝に使者を送っている事が記録されている。

邪馬台国のその後

邪馬台国の名は266年に晋の武帝に遣使朝貢(けんしちようこう)したという記録を最後に、中国の歴史書から消えている。
邪馬台国のその後は、書物からは全く分からないのだ。
四世紀に入ると、近畿地方に大和王権の母体となる国家が登場する。
邪馬台国と大和王権にどんな関係があるのか、幾つかの説がある。
邪馬台国が勢力を拡大して大和王権になったとする説。
また、邪馬台国は狗奴国に滅ぼされてしまい、大和王権とは直接的な関係は無いとする説など、様々である。

想像復元された卑弥呼の宮殿模型

想像復元された卑弥呼の宮殿模型
大阪府立弥生文化博物館提供

桃と卑弥呼

よく桃と卑弥呼の関係性が上げられるが、魏志倭人伝には、桃と卑弥呼の関係性を示す記述は一切ない
日本神話には、桃の神とされる「オオカムヅミ」が登場し、奈良県の纒向遺跡からはで3世紀前半と推測される2千個以上の桃の種が出土した事から、卑弥呼の墓ではないかとの論説が度々出る。
しかし、あくまで桃と卑弥呼の関係性を示す学術的な資料はない、という事を忘れてはいけない。
古来、中国では桃に邪気を払う呪力があると考えられており、こういった伝承が創り出した、卑弥呼に対するイメージでしかない。


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