卑弥呼

邪馬台国の女王 卑弥呼

目次

中国の歴史書に記された女王

卑弥呼は弥生時代後期から古墳時代前期に掛けて邪馬台国を収めた倭国の女王である。
しかし、卑弥呼に関しての記述がある歴史資料は、日本の歴史書には全く存在しない
卑弥呼の存在は、当時の中国の歴史書である「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にのみ記されている。
当時の倭国(日本の事)は大陸より様々な先進技術が伝来しており、少なからず国家間においての外交も行われていたのだ。
魏志倭人伝に記述されている倭国の様子はわずか、2000文字ほどしかないが、発掘調査による考古学資料から、様々な事が分かってきている。

安田靫彦画『卑弥呼』

安田靫彦画『卑弥呼』

『女王卑弥呼』栄永大治良画・大阪府立弥生文化博物館

『女王卑弥呼』(栄永大治良画) 大阪府立弥生文化博物館

卑弥呼の年表

200年頃 卑弥呼が邪馬台国の女王となる、この頃より古墳文化が始まる
239年 卑弥呼が帯方郡経由で魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と金印と銅鏡100枚を賜る
243年 卑弥呼が魏に遣使し、生口・倭錦などを献上
247年 卑弥呼が狗奴国王卑弥弓呼(くなこくおうひみここ)と戦う
248年 卑弥呼が亡くなり、男王が即位するが国内は混乱する、壱与(いよ・とよ)が女王に即位
266年 倭の女王、晋に遣使する
これ以降、316年までは書物による記録はない
関連年表

卑弥呼の簡単画像年表

鬼道によって、国を治める

魏志倭人伝によると、2世紀の後半に倭国では大変大きな戦乱が起こっていた。
その頃の邪馬台国は大小30カ国ほどの国々が争っており、卑弥呼が女王として即位した事により戦乱は鎮まったとされる。
なぜ、卑弥呼が女王となったのかなど、肝心な部分には多く謎が残されている。
倭人伝には卑弥呼は「年すでに長大」とあり、史料の他の部分から推測すると25歳前後ではなかった思われる。
夫は持たず、神に仕える巫女であった。
当時、論理的な統治による政治は行われておらず、卑弥呼は「鬼道(きどう)」と呼ばれる呪術によって、神のお告げを聞く事で国を治めていたようだ。

祭祀の様子(復元模型)

祭祀の様子(復元模型)
佐賀県教育委員会提供(吉野ケ里遺跡)

再現された卑弥呼の食事

再現された卑弥呼の食事
前列中央に、弥生時代の米の主流である赤米の強飯がある

卑弥呼には弟がいた

卑弥呼には弟がおり、国政を補佐していた。
両者には「祀り」と「政り」とが分担して行われていたようだ。
おそらく卑弥呼は、女王となって以降は宮殿に入った切りで、人前には姿を見せなかったと思われる。
多く発掘されている鏡などから、神との対話を行える神秘的な存在であるというアピールだったのかもしれない。

卑弥呼の弟に関する記述(魏志倭人伝)

「有男弟佐治國」弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある
卑弥呼の弟に関する記述(魏志倭人伝)

卑弥呼には100枚の鏡が贈られた

三角縁神獣鏡

1972年、島根県雲南市の神原神社古墳から「景初三年」という魏の年号が記された鏡が発見された。この鏡はその形状から「三角縁神獣鏡」と呼ばれた。
この三角縁神獣鏡は、中国で生産された可能性があり、そうであれば中国から贈られた事になる。

「三角縁神獣鏡(黒塚6号鏡)」黒塚古墳(奈良県天理市)

「三角縁神獣鏡(黒塚6号鏡)」黒塚古墳(奈良県天理市)出土(奈良県立橿原考古学研究所 国(文化庁)蔵 阿南辰秀氏撮影)
三角縁神獣鏡33面のうちの1枚。文様から三角縁銘帯四神四獣鏡と呼ばれる鏡で、直径22.0センチ

卑弥呼の鏡の可能性もある

『魏志倭人伝』に「魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡100枚を授けた」という記述があり、「景初三年」とは西暦239年で、卑弥呼が初めて魏に使いを送った年と一致する。そのため、「三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から賜った銅鏡ではないか」と考えられる事もある。
しかし、国内からは三角縁神獣鏡が500面以上発見されており、『魏志倭人伝』の100枚を大幅に上回る。
卑弥呼に贈られた銅鏡であったかは定かではない(最初に100枚、後からたくさん贈られた可能性もある)。

中国・洛陽発見の「三角縁神獣鏡」(西川寿勝氏)

中国・洛陽発見の「三角縁神獣鏡」(西川寿勝氏)
直径18.3センチ。2009年頃、王趁意氏が洛陽最大の骨董市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けたもの

九州の卑弥呼の鏡候補、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡

九州でも弥生時代の鏡が発見されている。大分県日田市のダンワラ古墳で出土したとされる金銀錯嵌珠龍文鉄鏡もその1つで、金銀を象嵌した鉄鏡は、日本国内ではこの鏡しかない。
この鏡が「卑弥呼の鏡」ではないかと言われ出したのは2019年(令和元年)。魏の創始者・曹操の墓を発掘した中国・河南省文物考古研究院の番偉斌氏が、「曹操の墓から出土した鏡が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に酷似している」と述べたのがきっかけである。
金や銀をはめ込んだ象嵌鉄鏡は皇帝など高位の人物が持つ権威の象徴で、「日本でこのような鏡が持てるのは、邪馬台国の女王・卑弥呼ぐらい」という見解を示す研究者も少なくない。
そのため、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を「魏の皇帝から下賜された鏡」と見る向きもある。

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(東京国立博物館所蔵)

「卑弥呼の鏡」説が浮上した『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』(東京国立博物館所蔵)
大分県日田市のダンワラ古墳で出土したとされる直径21.1センチ、厚さ2.5ミリの鉄鏡。表面には金で龍文が、銀で角や爪が象嵌されており、中央のつまみ付近には子孫の繁栄を願う「長宜子孫」の字が刻まれている。

以て死す、謎の多い死

狗奴国との戦いの最中に死去

卑弥呼は半世紀もの長い期間、倭国を治めていたが、その死は非常に謎が多い。
当時、邪馬台国は男王「卑弥弓呼(ひみここ)」が治める狗奴国(くなこく)と争っていた。
その戦いの最中に卑弥呼は亡くなっているのだ。

死亡時期は247年頃の可能性

邪馬台国と狗奴国が争っていたのが247年のため、卑弥呼が死去したのも247年か、その数年後(248〜249年)あたりの可能性が高い。

死因は『倭人伝』には記されず

史料には卑弥呼の死は「卑弥呼、以て死す」と記されているのみである。
当時の中国の歴史書では、「以て死す」とは天候不順などから起こる飢饉などの責任を取って殺害されている場合が多い。
卑弥呼もその例外ではなく、狗奴国との敗戦によって、その鬼道の力の衰えを疑われ、殺害されたのかもしれない。
※当時の倭国には「持哀(じさい)」という航海を行う際に安全を願う生贄に近い役割があった。航海が上手く行かなかった場合は、責任を取るため処刑されていたのだ。

魏志倭人伝 卑弥呼の死の記述

魏志倭人伝 卑弥呼の死の記述
宮内庁提供

魏志倭人伝の「以死」が意味すること

『魏志倭人伝』全文を隈なく見ても卑弥呼の死は「卑弥呼以死」とあるのみで、具体的な死因などは全く描かれていない。しかし、このたった2文字の「以死」が重要なキーワードになっている。
中国の史書にみられる700件以上の「以死」の用例を調べあげた考古学者の岡本健一氏は、その内容が刑死や戦死、自殺など、自然死ではない凄惨な結末ばかりであることを明らかにしている。

魏志倭人伝の「告喩」が意味すること

また卑弥呼の死の直前には、魏の使者・張政が邪馬台国の高官・難升米へ「檄を作って告喩した」との記述がある。
卑弥呼が魏に使者を送ったのは、敵対していた狗奴国との抗争で援護を求めるためだった。それに対して魏が「告喩」したという状況は、戦局悪化の責任を取るよう魏の使者が卑弥呼に厳しく迫ったのだという可能性も考えられる。
「以死」は、告喩の「以」に卑弥呼が不本意な死を迎えざるを得なかった、と解釈することができるのだ。

卑弥呼の死と皆既日食は無関係

科学調査によれば『247年3月24日日没』と『248年9月5日日出』の2回、皆既日食が起こったとされる。
その日食と卑弥呼の死を関連付ける論説があるが、この説はあまり信憑性は高くない
何故なら、その2度の日食はどちらも『九州と畿内(邪馬台国の比定地)』からは観測されなかったようで、更に2度の日食は『部分日食』であった。
部分日食はそこまで珍しい現象でもないため、弥生時代の人々もそこまで驚かなかったのではないだろうか。

台与、後継者に13歳の若い女王が即位

卑弥呼の死後、屋台骨を失った倭国内の平穏は乱れてしまう。
卑弥呼に次いで、男の王が即位するが国中が服さず、1000人もの死者を出すほどの大混乱が起きしまう。
この混乱を鎮めるため、台与(とよ・いよ)という卑弥呼と同じ血筋を持つ13歳の若い女王が即位した
この後、邪馬台国は無事に平穏を取り戻している。
そして、台与は20人もの使者を魏、および晋王朝に使者を送っている事が記録されている。

台与に関する記述(魏志倭人伝)

「壹與」卑弥呼の宗女壹與(台与)
台与に関する記述(魏志倭人伝)

邪馬台国のその後

邪馬台国の名は266年に晋の武帝に遣使朝貢(けんしちようこう)したという記録を最後に、中国の歴史書から消えている。
邪馬台国のその後は、書物からは全く分からないのだ。
四世紀に入ると、近畿地方に大和王権の母体となる国家が登場する。
邪馬台国と大和王権にどんな関係があるのか、幾つかの説がある。
邪馬台国が勢力を拡大して大和王権になったとする説。
また、邪馬台国は狗奴国に滅ぼされてしまい、大和王権とは直接的な関係は無いとする説など、様々である。

想像復元された卑弥呼の宮殿模型

想像復元された卑弥呼の宮殿模型
大阪府立弥生文化博物館提供

卑弥呼の墓は何処にあるのか

邪馬台国が何処にあったのかが分かっていない為、当然ながら卑弥呼の墓が何処にあるのか正確には分かっていない
ただし、『魏志倭人伝』には簡単ながら卑弥呼の墓に関して「卑弥呼は径百余歩の墓に葬られた」との記述があり、80mから150mほどの円墳であったことが想定される。
これらの少ない情報と、現在まで残っている同年代の古墳から「どの古墳が卑弥呼の墓なのか」を憶測する事は出来る。

卑弥呼の墓と大きさに関する記述(魏志倭人伝)

「大作冢徑百餘歩」大いなる冢を作る、径百余歩
卑弥呼の墓と大きさに関する記述(魏志倭人伝)

畿内には卑弥呼の墓はない

邪馬台国が畿内にあったとする説に基づくと、墓の比定地は箸墓古墳とホケノ山古墳が上げられる。
しかし、どちらの古墳も『魏志倭人伝』の記述とは年代も規模も形状も槨(棺を納める施設)の有無も合致しない。
卑弥呼の墓と考えられ得る古墳は畿内にはないようだ。

九州・祇園山古墳の可能性が高い

邪馬台国が九州にあったとする説に基づくと、石塚山古墳と平原遺跡と祇園山古墳の三つが上げられる。
石塚山古墳と平原遺跡はどちらも場所が有力候補地から離れ過ぎており、規模も形状も一致せず、卑弥呼の墓ではなさそうだ。
祇園山古墳は場所も邪馬台国の比定地に近く、卑弥呼の墓と考えてもそこまでの矛盾はない。

祇園山古墳の位置

祇園山古墳の位置(Googleマップより)
邪馬台国までの道程の国々と近い

卑弥呼は高齢だった

近年、様々なメディアで卑弥呼が登場するが、よく「卑弥呼は若い女性であった」というイメージで描かれるが、これは明確に誤りである。
魏志倭人伝には「年已長大」、すなわち“既に年長大”で、かなり高齢であったと記されている。

卑弥呼が高齢であったとする記述(魏志倭人伝)

「年已長大」既に年長大
卑弥呼が高齢であったとする記述(魏志倭人伝)

卑弥呼の享年は70〜80歳

卑弥呼の生年は不明だが、卑弥呼が女王に即位したのが倭国大乱の後(180〜190年頃)で、死去したのが247年頃だ。
190年生まれであったとしても確実に57年は生きており、即位した年齢が次期・女王の台与と同じ13歳であったなら、卑弥呼の享年は70〜80歳だった事になる。
弥生時代の日本人の平均寿命は出土した人骨の調査から30歳前後であった為、卑弥呼が当時としてどれだけ長生きだったかが覗える。

卑弥呼が高齢であったとする記述(魏志倭人伝)

想像復元された卑弥呼(大阪府立弥生文化博物館)
即位後まもなくまだ若い頃の卑弥呼の様子

卑弥呼の服装について

記録はないが、貫頭衣を着けていた可能性

卑弥呼の服装に関してはとくには記録がなく、憶測するしかない。
例えばどのようなものを着ていたかというと、弥生時代の代表的な衣服としては貫頭衣(かんとうい)があげられる。貫頭衣とは、長い布の中央部に穴をあけ、そこに頭を入れ、腰のあたりを紐でしばったもので、上着は基本的にはこのタイプであった。
下半身は巻きスカートのように布をまき着けていたとされる。

貫頭衣『山川 詳説日本史図録』より引用

貫頭衣(『山川 詳説日本史図録』より引用)

素材は麻が一般的、女性はオシャレだった傾向

この基本パターンに、バリエーションをつけたものが弥生時代の女性の衣装であった。
素材は麻が一般的で、卑弥呼も原則的にはそうした装いであったと考えられている。

皇帝から贈られた絹織物、勾玉やガラス玉など

卑弥呼は、皇帝から絳地交龍錦(こうじこうりゅうきん)と名付けられた豪華な絹織物なども下賜されているが、そうしたものを実際に身に着けていた可能性もある。
ほかにも勾玉やガラス玉などの多くの呪具を首や腕に身につけていたかも知れない。

高度な金属加工技術はまだなかった

卑弥呼は金属製のアクセサリーなどは着けていなかっただろう。当時はまだまだ金属加工の技術が未発達であり、王族が金属製の装飾品を身に付け始めたのは古墳時代ごろからと思われる。

卑弥呼の住まい(宮殿)について

魏志倭人伝に記述あり

住居に関して魏志倭人伝には、卑弥呼の住まいについてわりと詳しく記されている。 (弥生時代の住居として一般的には竪穴住居が考えられ、倉庫としては高床の建物が想定される。支配者の住居であれば、高床建物も使用されたと思われる)

貫頭衣『山川 詳説日本史図録』より引用

吉野ケ里遺跡の推定復元された大型建物、吉野ケ里遺跡が女王の都だったとは一般的には考えられない事が多いが、建築技術は類似していたとみられる(『山川 詳説日本史図録』より引用)

城柵と高い建物があり厳重に警備、男子禁制

卑弥呼の住居については、魏志倭人伝には「宮室、楼観には城柵を厳しく設け、常に人有りて兵を持して守衛す」と記されている。 つまり、卑弥呼の宮殿は、部屋の他に高い建物があり、周囲は柵をめぐらしていて、兵士がいつも警備にあたっていた。 さらにそこには「婢千人を以って自ら侍せしむ」とあり、多くの婢のみが卑弥呼に仕えていた。このスペースは男子禁制の空間であったという。

愛知県朝日遺跡の復元想像図『山川 詳説日本史図録』より引用

愛知県朝日遺跡の復元想像図(『山川 詳説日本史図録』より引用)

桃と卑弥呼

よく桃と卑弥呼の関係性が上げられるが、魏志倭人伝には、桃と卑弥呼の関係性を示す記述は一切ない
日本神話には、桃の神とされる「オオカムヅミ」が登場し、奈良県の纒向遺跡からはで3世紀前半と推測される2千個以上の桃の種が出土した事から、卑弥呼の墓ではないかとの論説が度々出る。
しかし、あくまで桃と卑弥呼の関係性を示す学術的な資料はない、という事を忘れてはいけない。
古来、中国では桃に邪気を払う呪力があると考えられており、こういった伝承が創り出した、卑弥呼に対するイメージでしかない。

卑弥呼は神功皇后だった?

江戸時代までは神功皇后(実在したなら4世紀中〜後期)が卑弥呼だと考えられていた。
その理由だが『日本書紀』に魏志倭人伝から引用された「倭の女王」についての記述があったからだ。
※ただし倭の女王の記述が引用されているだけで、神功皇后と卑弥呼が同一人物であると断定してはいない
確かに卑弥呼と神功皇后とでは不思議な力を持っていたりと似た部分もある。
しかし、現代ではそのように考える学者は殆どいない。
>> 卑弥呼は誰だった?

鎮懐石〜出産を遅らせる呪いの石が九州に

神功皇后が、お腹に子を宿したまま新羅征討に向い戦ったという神話が残されている。その時、皇后はお腹(腰)に【鎮懐石】という石を吊るす呪いをかけ、子が出産を遅らせた。
その【鎮懐石】が伊斗村(いとのむら:福岡県糸島市)に残されていたという。

古代から巫女の能力をもった女性が多くいた

この鎮懐石は『釈日本紀(13世紀末著)』という『日本書紀』の注釈書に引かれた『筑前国風土記』に「児饗石」の名で出てくる。
このような神話が残っているということは、古代の九州北部には、巫女としての能力をもった豪族の女性が多く存在した可能性がある。
そして、邪馬台国九州説をとるならば、卑弥呼もその一人だったことになる。
もちろん、これは何かの決定打になるような話ではないが、卑弥呼が何処にいたのかを想像する上での材料にはなるだろう。

神功皇后『名高百勇伝』歌川国芳作

神功皇后『名高百勇伝』歌川国芳作

出典・参考資料(文献)

  • 『一冊でわかるイラストでわかる図解日本史100人』成美堂出版 監修:東京都歴史教育研究会
  • 『最新学説で読み解く 日本の古代史』宝島社 監修:瀧音能之
  • 『別冊宝島2465 古代史再検証 邪馬台国とは何か』宝島社
  • 『山川 詳説日本史図録』山川出版社 編者:詳説日本史図録編集委員会
  • 『歴史道Vol.20 古代天皇の謎と秘史』朝日新聞出版 文:武光誠

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