卑弥呼は誰だったのか?

卑弥呼は誰だったのか?

卑弥呼の正体について、神話、伝説、歴史上の多くの女性が「卑弥呼候補」として議論されてきた。
日本最古の女王・卑弥呼とは誰だったのか?

祭祀の様子(復元模型)

祭祀の様子(復元模型)
佐賀県教育委員会提供(吉野ケ里遺跡)

日本書紀にみる卑弥呼の記述

女王・卑弥呼は古代日本史最大の“有名人”でありながら、中国側の歴史書にしかその存在が確認出来ない。
肝心の日本側の正史である『日本書記』には、神功皇后の条に「魏志倭人伝によれば景初3年に倭の女王が魏に使者を送った」と倭人伝を引用した一文が加えられていて、明言はされていないものの編纂者が「神功皇后=卑弥呼」だと認識していた様子を窺わせる。
ただし、この景初3年とは西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高い

神功皇后説

神功皇后は他の古代の女帝と比べても格段にシャーマン的要素の強い女帝であり、神功皇后は歴史的に長く15代天皇とされていた事も在った程の人物だ。
神功皇后は、「巫女王」という卑弥呼の正確には最も合致する人物だ。
新井白石(1657〜1725)や松下見林(1637〜1703)といった江戸時代の学者も神功皇后説をとっており、歴史的にも最も有力視されて来た説だ。
ただ「夫なし」とされた卑弥呼に対して神功皇后はその名の通り仲哀天皇の后であるなど、多少の矛盾はある。

神功皇后(月岡芳年画伯)

神功皇后(月岡芳年画伯)

ヤマトトトヒモモソヒメ説

7代孝霊天皇の皇女・ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)を卑弥呼とする説では、彼女の生きた時代を3世紀中頃(邪馬台国全盛期)とみる事で数世代後の神功皇后よりも年代論的に説得力のある卑弥呼候補だ。
ヤマトトトヒモモソヒメは三輪山の大物主神の妻になったという伝説を持つ女性で、神に仕え人間の夫を持たなかったという意味でも、卑弥呼に重なってみえる。
ただし、彼女の父であった孝霊天皇は「欠史八代」の1人であり、現在では存在しなかった人物であったと考えられている。
その為、娘であったヤマトトトヒモモソヒメが実在したというのも、疑問は残っている。

アマテラス説

卑弥呼=アマテラス説は、白鳥庫吉、和辻哲郎など戦前の学者によって主張された。
卑弥呼もアマテラスも男弟(スサノオ)が重要な役割を演じている事など類似点が多い事が主な論拠で、また近年では卑弥呼の死の前後に起こったとされる日食と天の岩戸神話の関連性に着目した議論もある。

自称・女王説

しかし、『記紀(古事記と日本書紀)』など神話を含めた正史(物語)に登場する人物の「実在」を前提として、神話や伝説を事実の様に扱う議論には、科学的な根拠を欠くという批判もある。
国学者本居宣長(1730〜1801)は敢えて記紀のなかには卑弥呼を求めず、「卑弥呼は勝手に倭国代表を自称した九州の女酋(女首長)だったに過ぎない」とする独特な説を唱えた。
「皇室の祖先かも知れない女王が、魏に朝貢するなど認められない」という国粋主義から出て来た主張ではあるのだが、現在では記紀神話にとらわれない合理的な説であるとして評価されている。

魏の国の使いは邪馬台国を訪れていなかった可能性が高く、おそらく魏の使いは、伊都国(福岡県糸島市)までしか辿り着いていなかったようだ。
卑弥呼(自称女王)が独断で魏に使いを送ったと考えるなら、あまり日本国内を周れなかった事にも説明が付く。

個人ではなく「卑弥呼職業」説

「卑弥呼=邪馬台国女王」という観念を飛び越えて探ろうと試みるのが古代史学者の遠山美都男氏である。
遠山氏の説では「卑弥呼」は固有名詞ではなく、倭国大乱を収める為に生み出された新制度だったという。
卑弥呼は女王ではなく、邪馬台国連合を治める倭国王の正統性を保証する「卑弥呼職」という一機関だったとする説だ。

金印・漢委奴國王印文

金印・漢委奴國王印文
後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封の証として)賜った印
魏が卑弥呼は発見されていない

結論:金印が見付かるまで答えは分からない

邪馬台国の所在地が九州か畿内かによって卑弥呼の候補者も変わってくる訳で、伝説的な女首長や土地の女神を候補者とする説はまだ、多く在る。 卑弥呼が誰であったか?
それを確定するには、卑弥呼が魏より贈られたとする“金印”が出て来る事こそが大前提である。
卑弥呼の金印が確認出来れば、その場所や年代が分かり、卑弥呼が“何処の誰だったか”を特定する大きな手掛かりとなるだろう。


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