「記紀」の記述は神話の時代から始まり、「古事記」は第33代推古天皇、「日本書紀」は第41代持統天皇までの事績が記されている。
推古天皇の在位は593〜628年、持統天皇の在位は686〜697年である。
ほぼ同時代に編纂された歴史書ながら、8代、約100年の差があるのは何故なのか?
645年、中大兄皇子(後の天智天皇)は中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともに蘇我入鹿を暗殺し、その父親の蝦夷を自害に追い込み、専横的な政治勢力を一掃して大化の改新を断行した。
これによって、強い支配力を持つ天皇が誕生したのである。
その最初の天皇が天智天皇だった。
そんな情勢の中で、天皇家の存在が一気にクローズアップされ、万世一系の天皇家の系譜を広く知らしめる為に編纂されたのが「記紀」だった。
「日本書紀」は「古事記」に比べて神話の内容に関しても政治的な意図が強く出ている。
「古事記」は文学的に編纂されているのに対して、「日本書紀」は官僚的な色彩が強い。
おそらく「古事記」編纂の段階で大化の改新の重要性が再認識され、大化の改新を断行した天智天皇、それを継承した弟の天武天皇、そして、藤原京遷都を断行した持統天皇の事績を収録する事が不可欠と考えられたのではないだろうか。
「日本書紀」には、天智、天武の事績はかなりのボリュームで記されている。
日本の歴史の中で、大化の改新は、一番最初の重要な分岐点とえる。
その最初の分岐点を詳しく述べる事によって、強い天皇をアピールする意図があったのだろう。
聖徳太子は、「冠位十二階」や「憲法十七条」を定める事で、日本の律令国家としての歩みを決定づけた人物だ。
その日本古代史上、極めて重要な人物が「古事記」には一切記述されていない。
太子が摂政を務めた推古天皇までは記されているにも関わらずだ。
やはり、「日本書紀」は政治的な理由から、歴史的事実に対して「加筆」もしくは「改ざん」を行った可能性が高い。
「古事記」の最終章は第33代 推古天皇の記述で終わっている。
しかし、「日本書紀」には、それから100年近く後の、第41代 持統天皇の巻が最後となっている。
第34代〜第41代までの天皇は、「日本書紀」にしか記されていない。
第23代 顕宗天皇までは、具体的な事績やエピソードが記述されている。
第24代 仁賢天皇も、即位前のエピソードは詳しいが、退位後の記述は婚姻関係や生まれた子供の記録のみ。
それ以降の天皇も、系譜のみの記述で、人となりが分かるような記述はない。
古事記には、仁賢天皇以降は、名前と系譜しか記されていない。
よって、仏教が公伝された第29代 欽明天皇の章では、仏教に関する記述がない。
第33代 推古天皇の代で記述で終わっている為、第38代 天智天皇の即位前に行われた「大化の改新」に関しても、当然記されていない。
年代 | 出来事 |
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674〜677年(天武3〜6年頃) | 天武天皇が稗田阿礼に『帝皇の日継(帝紀)』と『先代の旧辞(旧辞)』を読み習わせる |
681年(天武10年) | 天武天皇が川島皇子らに『帝紀および上古の諸事』を記し定めるように命じる |
686年(朱鳥元年) | 天武天皇が崩御、この頃に稗田阿礼の仕事はほぼ完成していた |
705年(慶雲2年) | 舎人親王が『日本書紀』作成の責任者となる |
711年(和銅4年) | 元明天皇が、稗田阿礼がまとめた『旧辞』を太安万侶に書き記させる |
712年(和銅5年) | 『古事記』が完成する |
714年(和銅7年) | 紀清人と三宅藤麻呂が『日本書紀』作成の担当者に加わる |
720年(養老4年) | 舎人親王らが『日本書紀』を完成させて元正天皇に差し出す |