第29代 欽明天皇

第29代 欽明天皇

欽明天皇の事績

欽明天皇(きんめい:509〜571年)は古墳時代の第29代天皇。継体天皇の第三子であり、安閑天皇や宣化天皇の異母弟である。
別名を志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(しきしまのすめらみこと)という。
欽明天皇の時代に、百済より日本へ仏教が公伝し、朝鮮半島南部の任那日本府が滅亡している。

大伴氏、蘇我氏、物部氏の三勢力が拮抗

欽明天皇の治世は、内政面では蘇我氏との関係が強くなった事、外交面では、朝鮮半島経営に失敗した事、公に仏教が伝来して来た事などが挙げられる。
欽明朝の首脳部の顔ぶれは、当初は大伴金村(おおとものかなむら)と物部尾輿(もののべのおこし)の大連(おおむらじ)に加え、蘇我稲目(そがのいなめ)を大臣(おおおみ)として、三者が拮抗する形をとっていた。

大伴氏の没落

欽明天皇元年(540年)に事態が動く。
物部尾輿が、とある事情から大伴金村を糾弾し、金村が失脚する事になったのだ。
尾輿が金村を糾弾したのは「継体天皇の時代に、大伴金村が、百済への任那4県割譲を許した事で、新羅の恨みを買ってしまった。」という理由からであった。
これにより、大伴氏の勢いがなくなり、物部氏と蘇我氏の二頭政治が始まる。
これ以降、蘇我氏が急速に頭角を現し、物部氏との対立が目立つようになる。

政略結婚による蘇我氏の台頭

欽明天皇2年(541年)、蘇我稲目は、娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の妃として送り込んだ。
後に、堅塩媛との間の子である用明天皇(ようめい)と推古天皇(すいこ)、小姉君との間の子である崇峻天皇が相次いで即位し、外戚として蘇我氏の権勢は絶頂に達する。

難航する朝鮮半島経営

この頃、朝鮮半島経営はなかなか上手く行かなかった。
半島での一大拠点であった任那が滅び、友好国である百済も、高句麗と新羅に押され気味であった。

分裂が進む任那日本府

任那を構成する南加羅(アリヒシノカラ)、啄己呑(トクコトン)、卓淳(トクジュン)の小国は新羅に奪われ、残る安羅(アラ)、加羅(カラ)、多羅(タラ)などにも滅亡の危機が迫っていた。
欽明天皇は、任那の再興を図るため、たびたび救援軍を朝鮮半島に送り込んだが、倭国軍の士気は低かった。
しかも、安羅日本府の長官が新羅とよしみを通じるなど、内部では分裂しており、失地回復は進まなかった。
また、この時代に百済から公伝された仏教も、争いの火種を含んでいた。

仏教をめぐり、崇仏論争が起こる

仏教の受け入れをめぐって、崇仏派の蘇我稲目と、排仏派の物部尾輿・中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)との対立が激化する。
欽明は、取り合えず稲目に仏教の礼拝を命じ、様子を見る事にした。
その後、疾病が流行し、若死にする者が多かった。
物部氏は、疾病の原因を「異国の神を拝んだからだ」と主張、仏教を廃止するよう天皇に迫った。
これを欽明が了解した事から、寺は燃やされ仏像は水路に捨てられてしまった。
仏教の受容は、容易には進まなかったのである。

欽明天皇が崩御

欽明天皇32年(571年)4月、病で倒れた欽明は、寝所に皇太子を呼び、「新羅を打倒し、任那を再興せよ」と遺言。
そのまま亡くなってしまったのである。

欽明紀に残る異説

仏教はいつ公伝したのか

日本書紀によると、「欽明天皇13年(552年)に百済の清明王から金銅の釈迦仏像と経論などが献上された」とある。
しかし、近年では、仏教伝来は、「元興寺縁起(がんこうじえんぎ)」や「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」等から、538年であるとする説が有力だ。

朝廷が分裂していた可能性

538年は、日本書記によると宣化天皇の治世だ。
そのため、欽明天皇は継体天皇の崩御後すぐに即位し、安閑天皇・宣化天皇による王朝と、欽明天皇による王朝という、複数の王朝に分かれていたとする説が唱えられている。


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