平清盛

平家の栄華を築いた 平清盛

平清盛

武士として初めてだ太政大臣にまで登りつめた

平清盛(1118〜1181年)は平安時代末期の平氏の棟梁である。
1156年の保元の乱と1160年の平治の乱に勝利し、武士として初めてだ太政大臣にまで登りつめ、平家政権を築いた武士政権の祖となった。
清盛が築いた平家の栄華は長くは続かなかったが、祖父である平正盛(たいらのまさもり)が築いた権力基盤による武力と、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせる事により、天皇の外祖父となる事で、朝廷の権威すらも手中に収めることで、日本全土を収めるほどの権力を手に入れた。
後の徳川家康に匹敵するほどの力を持った、日本史上においても稀に見る人物である。

保元の乱で播磨国を獲得

清盛が平氏勢力を大きく飛躍させることが出来た要因として、二つの内乱が挙げられる。
一つ目の保元の乱は、朝廷内での権力闘争が元となった戦いである。崇徳上皇(すとくじょうこう)と後白河天皇(ごしらかわてんのう)により対立だ。
この戦いで清盛は源義朝と共に後白河天皇方について戦う事で勝利を収めた(反対に崇徳上皇方には源為義が参加した)。
清盛は300余騎を率いて戦い、その戦功として播磨守(はりまのかみ)となった(現在の兵庫県南西部の領土を得た)。
※ちなみに清盛と一緒に戦った源義朝は左馬頭(さまりょう)と言われる官職を得たが、この役職は馬の飼育係という、極めて戦功に合わぬ者であった。
しかも、この戦いで崇徳上皇に付いた源為義は義朝の父であり、戦後処理で義朝は父の助命を嘆願したにも関わらず処刑しなければならなった。
こういった経歴もあり、義朝が朝廷や公家、清盛に対して不満を持っていたとも云われる。

平治の乱で、後白河上皇の信頼を得る

二つ目の乱が、平治の乱である。乱の原因だが、保元の乱の後、藤原通憲(ふじわらのみちなり、信西(しんぜい))が実権を握る事となった。
しかし、それをよく思わなかった藤原信頼(ふじわらののぶより)が義朝と共に後白河上皇を幽閉するクーデターを起こしてしまう。
この時、清盛は熊野詣(くまのもうで)の為に京都を出ていたが、知らせを聞きすぐに都へと駆けつけ、上皇を開放した。※この時、清盛は義朝に対して名簿を差し出して、一旦降伏の意を示す事で義朝の隙をついて上皇を救出したと云われる。
上皇が解放された事により、清盛は反撃に出る事が出来るようになった。これにより信頼方は統一を失い、義朝と信頼は平氏軍に敗れた。
この戦いの後、信頼は処刑され、義朝も東国へ敗走中に、尾張国で家人に裏切られ謀殺された。
義朝の子である、源頼朝は伊豆へ配流となった。
※熊野詣とは紀伊半島南部の熊野にある、本宮・新宮・那智の熊野三山を参詣すること。

太政大臣となり、娘を天皇へ嫁がせる

上記の乱の後、清盛はさらに出世してはれて公卿の仲間入りを果たす。
そして1167年には太政大臣(だじょうだいじん)に就任し非常に高い権力を得た。この後、清盛は平氏一門を次々と高位高官に取り立てていったのである。
次に清盛は摂政家と婚姻関係を結び、1171年には妻である時子(ときこ)の妹の滋子(しげこ)が生んだ高倉天皇(たかくらてんのう)の下へ娘の徳子(とくこ)を入内させた。
この後、徳子が生んだ子が安徳天皇(あんとくてんのう)となる

平家の栄華は長くは続かなかった

絶大な権力を得た平氏一門ではあったが、その分、反発も大きかった。
全国各地の武士は利益を独占する平氏を妬み、後白河法皇も平家の権勢を疎んじていた。
そして1179年、清盛が後白河法皇を幽閉し政権を奪うクーデータを起こしてしまう。翌年の1180年には娘の徳子が次の天皇となる安徳天皇を出産した。
安徳天皇は3歳という幼さで即位する事となり、平家の権勢は続かと思われたが、間もなく、頼朝率いる源氏勢力が挙兵し、平家討伐に動きだすのだった。

日宋貿易

清盛は瀬戸内海、大輪田泊(おおわだのとまり)や航路を整備しを整備して日宋貿易にも力を入れていた。
日宋貿易は大いに栄え、宋から輸入した宋銭や書物、繊維、陶磁器、珍品など大陸から沢山の文化や品物が日本へ入って来た。また、宋銭による貨幣経済の導入により経済の活発化にも貢献した。
平家の滅亡後も、日本と宋の国交は無かったものの貿易は鎌倉時代まで続いており、清盛が日本へもたらした恩恵はとても大きい。



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