安土桃山時代

安土桃山時代の出来事

次期将軍を奉じて、京都を目指す信長

尾張を平定した織田信長は1560年、桶狭間の戦い今川義元を破る事で、一気に名前を挙げる事となった。
信長は美濃の斎藤氏を滅ぼして濃尾平野を支配した頃から、「天下布武(てんかふぶ)」の文字が記された印判を用い始めたといわれる。
同時期、暗殺された室町十三代将軍の足利義輝(よしてる)の弟であった足利義昭(よしあき)は越前にいた。
越前の大名である朝倉義景に、自分が将軍になるため、入京を促していたのだ。しかし、義景は中々首を縦には振らなかったといわれる。
そこで義昭は、明智光秀を通じて信長を頼るようになったのである。
同じく信長も上洛する事を望んでおり、義昭の提案は好都合であった。
信長は義昭を、次期将軍として擁立する事で、無事入京する事に成功する。

京都で勢力を広げる信長

十五代将軍となった義昭は、信長を副将軍や管領などへの任官を促すが、信長は義昭から官位を受けなかった
この時、信長が求めていたのは堺への代官所の設置などの実権だったのだ。
この頃、信長は天皇の皇子を養子にするなどの政略を用いる事で、朝廷の権威を利用しながら、自身の権力基盤を拡大していた。
さらに、信長将軍の権利にすらも制限を掛けたため、これに不満を感じた義昭は、諸国の大名たちに反信長連合を呼びかけるのである。

将軍が追放され、室町幕府は滅亡

信長は義昭と結んで、敵対していた浅井長政と朝倉義景の連合軍に「姉川の戦い」で勝利した。
その翌年、その両軍に加担していた延暦寺を焼き打ちにしたのである。
これは中世の権威だった寺院勢力を壊滅させ、政教分離を行う事が目的であり、仏教弾圧を目的としたものではない。
その後、信長が最も恐れていた甲斐の武田信玄が急死した。
反信長勢力にとって、信玄の死は非常に痛手であり、これを機に信長は義昭を京より追放した。
将軍が都を追われた事で、室町幕府は滅亡してしまったのである。
続いて、浅井・朝倉も信長に滅ぼされてしまう。

経済改革・楽市楽座

室町幕府を滅ぼした翌年、1574年に信長は「伊勢長嶋の一向一揆」を平定した。
加賀に100年に渡り国を立てていた一向宗(浄土真宗)の頂点である石山本願寺の有力拠点が長嶋だったのだ。
長嶋では比叡山を上回る虐殺が行われたといわれ、それ以降、一向一揆は急速に衰退していくのである。
長篠の戦い」では三千丁もの鉄砲を用いた戦いで武田勝頼を破った
越前の一向一揆を平定した信長は西国支配へ取り掛かるため、羽柴秀吉を派遣する。
そして、信長は新たな拠点として、琵琶湖のほとりに安土城を築城した。
同じく信長は、境を直轄地として、商人たちに自由は商売を認める楽市・楽座令を発布し、経済政策による国力増強も図るのである。

本願寺に勝利するが、謀反により信長自害

1570年に本願寺の門主である顕如(けんにょ)が門徒たちに信長との戦いを呼びかけた。
各地の一向一揆を平定した信長、残る最後の敵である石山本願寺を攻め滅ぼす事になる。
そして1580年に、ついに顕如が本願寺のあった大坂を離れる事になった。
しかし、顕如の子であった教如(きょうにょ)は信長に対して徹底抗戦を訴え籠城戦に出るのである。
その五か月後、本願寺が屈し、和平が成立した。
本願寺という最大の敵に勝利した事で、信長の天下統一は目の前であったが、まもなく信長は家臣である明智光秀の謀反で自害する事となる。

秀吉の台頭

1582年6月21日「本能寺の変」によって、信長は自害する。そして間もなく光秀も、同じく織田家臣団であった羽柴秀吉にあっけなく討たれてしまった
本能寺の変によって、信長とその嫡男の信忠まで殺害されてしまった為、織田家では後継者が不在であった。
そのため、織田家の後継者争いが始まるのである。
実権を握ろうとする秀吉は、まだ幼い信長の孫を擁立する事で実権を握ろうとするが、それに反発した織田信孝(のぶたか:信長の三男)と柴田勝家が挙兵する。
しかし「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家が秀吉に敗北してしまう。
さらに翌年、織田信雄(のぶかつ:信長の次男)・徳川家康と「小牧・長久手の戦い」が起こる。
この戦いは戦局が膠着してしまい、信雄が単独講和を秀吉に申し入れた為、家康もやむなく従い和睦が成立するのである。

惣無事令と、天下統一

経済的、軍事的にも強大な力を持っていた秀吉ではあるが、武家社会の中では農民の生まれという最大の弱点も持っていた。
秀吉はこの点を克服する為、時の右大臣に願い出る事で、関白という地位を得る事が出来た。
さらに翌年には太政大臣に任じられ、豊臣姓を賜ったのである。
朝廷の権威まで得る事に成功した秀吉は、全国に対し「惣無事令(そうぶじれい)」という停戦命令は発布した。
これは全国の領国を確定する権利が秀吉にある事を示すと同時に、合戦や私闘を禁じる事で、戦国時代を終わらせる事を意味していた。
これ以降、秀吉は惣無事令に従わぬものを征討していき、全国統治に乗り出すのだ。
大坂城を築いた後、秀吉は寿楽亭(じゅらくてい)に移り、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を迎えて五日間に及ぶ宴会を開いている。
そこで秀吉は、諸大名に天皇と自分に対し忠誠を誓わせたのだ。
そして秀吉は九州、関東、東北を平定し、天下統一を果たしたのである。

太閤検地

秀吉は信長配下の時代から、獲得した領地の検地を行っていた。
いわゆる太閤検地で、領地の生産性を米の量で示す石高制が確立されたのだ。
土地面積の表示や、穀物を量る升も統一し、各地で統一基準を使った検地を実施した。
これにより、全国各地の大名の領地を石高で計測する事が出来るようになった。
以後、大名は石高に見合った軍役を奉仕する事になる。

刀狩と兵農分離

農民は一つの土地を一人の権利者が耕作するのが原則となり、年貢は村が一括して収める事になる。
この体制が江戸時代にも引き継がれていく。
また、刀狩により武器が没収され、兵農分離が行われた。
さらに人掃令が出され、農民が商人になるなどの転職が禁止される事になり、農民と兵士、商人を分離する身分統制制度が確立されたのだ。

キリシタン弾圧

九州を平定した秀吉は、ヨーロッパより渡来したキリスト教が大名に与えてる影響の大きさを知る。
これより、大名のキリスト教への入信を許可制へとした。
さらに、スペインがキリスト教宣教師を使って、海外領土の拡大を図っていると耳にした為、宣教師たちの追放を決定する。
しかし、その後もヨーロッパとの貿易(南蛮貿易)は続いていく。

朝鮮出兵

国内を統一した秀吉は、当時弱体化していた中国の明へ支配領域を広げる計画を持っていたといわれる。
そのため、秀吉は朝鮮への出兵を行った。
しかし、弱体化したとはいえ、明の軍は強大であり、日本軍は休戦を余儀なくされるのである。
その後、朝貢を許すという明まらの申し出に激怒した秀吉は、さらに朝鮮への出兵を開始するが、1598年に亡くなってしまった。
そして、秀吉の死後は、朝鮮への出兵は行われなかった

五大老と五奉行

秀吉は死の一ヶ月ほど前、自分の死後も豊臣政権が存続していくよう、政権基盤の強化を行っていた。
秀吉は元々が農民であり、先祖代々受け継いだ家臣が亡く、一代で上り詰めた大名であるため、腹心の部下たちに政務を分担させたのだ。
そこで決められたのが、五大老と五奉行という、奉公顧問の五代大名と、実務顧問の五人たちの武将である。
この二つに、自分の子である豊臣秀頼への忠誠と補佐を誓わせていたのだ。
自分の死後も、どうか秀頼を盛り立ててくれるよう、五奉行と五大老に頼んだ秀吉は、1598年8月に亡くなった。

五大老

徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝

五奉行

浅野長政(司法)、石田三成(行政)、増田長盛(土木)、長束正家(財政)、前田玄以(宗教)

徳川家康と石田三成の対立

秀吉の死後、徳川家康が秀吉の命に背き、伊達政宗らと勝手に婚姻関係を結んだ。
これに反発した五奉行や、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元らが家康を結問した。
その後、石田三成が家康の襲撃を計画するなど、豊臣政権は危うさを露呈し、政権は内部から分裂し、崩壊していくのだ。

徳川、上杉、毛利らが戦を始める

五大老の筆頭である徳川家康は1590年、それまでの領地を離れ、新たに関東に拠点を移し、江戸の整備を進めた。
先の朝鮮出兵に参加しなかったため、大きく力を蓄えていたのだ。
秀吉の死後、家康は豊臣政権内での筆頭家老として、最大勢力を誇っていた。
伊達氏や福島氏と姻戚関係を結ぶ事で、石田三成らと対立する事となる。
この時、石田三成ら文治派の武将たちと、福島正則や加藤清正などの武断派の武将らも対立していた。
家康と同じ五大老の上杉景勝は、家康と対立していた為、家康は上杉討伐の為、会津へ出兵する。
家康の出兵を見計らい三成も挙兵するのである。
三成率いる西軍は、毛利輝元を総大将として、大坂より美濃、伊勢方面へと兵を進めていく。
天下分け目の戦いを前にした家康は、不利な戦況を打開するため、各地の大名たちに書状を送っている。
この時、家康は決して優勢であった訳でなく、味方を募る必要があったのだ。
事前に書状を送り、密約を交わす事で、西軍を含む大名たちを味方につけてることの成功した。

関ヶ原の戦い、小早川秀秋の裏切り

関ヶ原の合戦当日、家康の子である後の二代将軍徳川秀忠が、開戦に間に合わなかった。
これにより家康は、予定よりも3万もの兵を欠いたまま合戦を始める事となる。
兵力の上でははるかに西軍が有利であった。
しかし、戦況を伺っていた小早川秀秋が、合戦が始まり、しばらくの沈黙の後、西軍に対して軍を進めていく。
小早川は本来、西軍であったにも関わらず、事前に家康との盟約を交わしていたのだ。
急な小早川の裏切りに狼狽えた西軍は瓦解を始めてしまう。
こうして、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わったのである。


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