姉川の戦い

姉川の戦い

姉川の戦いは、戦国時代(室町時代終期)の元亀元年6月28日(1570年7月30日)に近江浅井郡姉川河原(滋賀県長浜市野村町)で行われた合戦である。
「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼ばれていた。

浅井氏討伐に信長が動く

金ヶ崎の戦いで裏切った浅井長政を討伐する為、北近江に進撃した織田信長は、横山城を包囲した。
信長側には援軍として徳川家康も参戦している。
これに対し、横山城を救う為に浅井・朝倉連合軍が出撃。
両軍は姉川を挟んで対陣し、全面衝突した。
織田・徳川軍が兵数約2万5000、浅井・朝倉軍は約1万3000と、織田・徳川軍が数の上でも勝っており勝利する。
戦いに勝利した信長は、すぐに横山城を落城させると、木下藤吉郎(羽柴秀吉)を城番に任命。
続く浅井氏攻略の拠点とした。

『阿根川大合戦之図』月岡芳年

『阿根川大合戦之図』月岡芳年
姉川の戦い 本多忠勝 大判錦絵三枚続 慶応2年(1866)
江戸時代は元亀・天正以降の武家を描くことが禁じられていた為、当て字となっている

織田・徳川が浅井・朝倉を撃破

織田2万と徳川5千の連合軍

1570年、金ヶ崎の戦いで裏切った浅井長政を攻める為、信長は2万人の兵を率いて長政の居城・小谷城へ向かう。
しかし小谷城は天然の要害で、周囲には多くの支城があり容易には落とす事が出来ない。
そこで信長は、小谷城の南にある横山城を取り囲み、6月24日に攻撃を開始した。
徳川家康は5000人を超える兵を連れて加勢する。

朝倉8千と浅井5千

これに対し、朝倉義景は8000人の兵を派遣。
長政は5000人の兵を連れて小谷城から出撃した。
27日、浅井・朝倉軍は兵を南に移動させ、姉川を挟んで信長軍と対峙。
翌日の早朝、戦闘が開始されたが、『信長記』によれば「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」という激戦になったと記されている。

浅井・朝倉が敗退

浅井・朝倉軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせる。
まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走、織田・徳川側が1100余りを討ち取って勝利を収めた。
なお、「浅井軍に攻め込まれた織田軍の危機を徳川軍の活躍で逆転した」という伝説は、江戸時代の創作とされる。

凄惨な戦の後が地名に残る

この戦いで朝倉の家臣であった真柄十郎左衛門ら多数の戦死者が出ている。
激戦となった姉川は多数の死者によって川の色が赤く染まったといわれ、現在でも、戦場近くには「血原」「血川」という地名が残っている。

合戦の影響

姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、重臣・遠藤直経や長政の弟・政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら重臣たちが戦死した。
朝倉氏では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死、織田方では坂井政尚の嫡子である尚恒らが戦死している。
戦い後、浅井は比叡山の僧兵衆や石山本願寺の一向一揆と手を結び、信長との抗争を続けていく事となる。
次第に弱体化していった浅井・朝倉両氏は大局的な戦略に方向転換し甲斐の武田信玄や本願寺顕如らと組み信長包囲網を形成していく事になる。

奮戦する磯野員昌

奮戦する磯野員昌
浅井軍の磯野員昌は信長本陣近くまで攻め込んだという伝説がある
しかし、この員昌は後に織田方に投降している


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