第一次信長包囲網

第一次信長包囲網

足利義昭の呼びかけで、反信長の勢力が連携して包囲網を築いた。
武田信玄や朝倉義景、浅井長政、三好三人衆、石山本願寺らの反信長勢力に四方を敵に囲まれた信長は窮地に立たされた。

明将 武田晴信入道信玄

川中島百勇将戦之内
明将 武田晴信入道信玄

義昭によって反信長勢力が結託

姉川の戦いに勝利した信長だったが、彼の前に立ちはだかった敵は、将軍足利義昭だった。
上洛当初、二人の関係は良好だった。
しかし、幕府を中心とした政治体制を執りたい義昭と、武力での天下統一を狙う信長の間には相容れないものがあった。
そして信長は「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」という21カ条からなる掟書きを義昭に突き付けた。
武力も持たぬ義昭は、この掟を渋々と承諾するが、両者の仲は修復不可能なものとなった。

殿中御掟

殿中御掟

殿中御掟で将軍に指示を出す信長

この掟には「天下の事は信長に任されたのだから、勝手な事をしてはならない」という一文があるが、義昭にとっては、到底、納得のいくモノではなかったようだ。
義昭はこの掟を無視し、各地の諸大名・勢力に「信長打倒」を呼び掛けたのである。
これに呼応したのが浅井長政朝倉義景三好三人衆松永久秀石山本願寺などであった。
更に甲斐の武田信玄もこれに呼応し、北条氏政と同盟を組んで後方の安全を確保するなど、上洛に向けての準備を始めた。

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)
江戸時代に等持院像を粗描したもの

浅井・朝倉軍を破る

四方を敵に囲まれた信長は、各地での戦いを強いられた。
石山本願寺との戦いが始まり、また浅井・朝倉軍と断続的に戦い続けた。
信長は浅井・朝倉軍を破ったものの、彼らは比叡山に逃れ、延暦寺に匿われた。

朝倉義景

朝倉義景

三方ヶ原で家康を破った武田信玄

延暦寺焼き討ち

元亀2年(1571年)、信長は延暦寺に対し、浅井・朝倉軍を引き渡すように要求する。
だが延暦寺はこれを従わず、業を煮やした信長は比叡山への総攻撃を命じた。

3万の軍勢で比叡山を取り囲み、山麓から火を放って根本中堂(こんぽんちゅうどう)などの建物群をことごとく焼き払った。
さらに山中にいた人々を老若男女の区別なく殺害し、その数は数千人に及んだと云われている。

信長に怒る武田信玄

この比叡山焼き討ちは、周辺諸国の大名や勢力に多大な影響を与えた。
特に武田信玄は信長を「天魔ノ変化」と罵り、延暦寺再興に尽力した。
そして元亀3年(1572年)10月、信玄は遂に西上作戦を開始した。

武田晴信像(高野山持明院蔵)

武田晴信像(高野山持明院蔵)

武田軍に敗北する徳川家康

武田軍は徳川領の遠江に侵攻し、二俣城を攻略して浜松城に近づいた。
そして三方ヶ原で徳川・織田連合軍と激突するが、戦いはわずか2時間程で決着が付いた。
徳川・織田連合軍は死傷者2000人を出して潰走し、徳川家康は命からが浜松城へ逃げ込んだ。

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い

徳川家康三方ヶ原戦役画像(徳川美術館所蔵)

徳川家康三方ヶ原戦役画像(徳川美術館所蔵)


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