金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は戦国時代(室町時代終期)の1570年(元亀元年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘。
朝倉氏攻めのため京を出発した織田信長は、朝倉方の金ヶ崎城を包囲、信長の説得により、金ヶ崎城主・朝倉景恒は開城した。
そして信長が越前に攻め入ろうとした時、浅井氏が裏切ったという一報が入る。
朝倉氏と浅井氏による挟み討ちを恐れた信長は、わずかな従者を連れて京に戻った。
金ヶ崎の退き口または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦である。
1560年の桶狭間の戦い後、美濃を手中に収めた信長は、1568年に足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府15代将軍の座に就けた。
表向きこそ信長は将軍・義昭の補佐であったが、武力も持たぬ義昭は信長の傀儡と化しており、実権は信長が握っていた。
1570年4月20日、抵抗する武藤友益を討つという口実のもと、織田信長は3万の兵を率いて京から若狭(福井県)に向かう。
本当の目的は、信長の上洛要請を無視し続ける朝倉義景を倒す事にあった。
信長軍は4月26日、敦賀の手筒山城と金ヶ崎城の攻撃を開始。
手筒山城には寺田采女正が立て籠もり、金ヶ崎城では朝倉一族の朝倉景恒が総大将として入っていた。
信長軍は手筒山の搦手(背後)から攻撃し、大混乱となった朝倉軍は、信長の説得もあり降伏。
両城とも開城となった。
このまま一気に義景の本城である越前・一乗谷城に攻め込もうとした信長に、耳を疑う報せが届けられた。
妹・お市の方の夫である浅井長政が裏切って挙兵したというのである。
長政としては、信長よりも朝倉との結びつきが長く深かった。
さらに長政の呼掛けに応じて北近江の六角承禎(じょうてい)までも出陣。
信長は義景軍と長政軍に挟み撃ちされる形となってしまう。
信長はこの窮地を脱する為に即座に京へ戻る事を決意する。
その殿(しんがり:最後尾の囮部隊)を木下藤吉郎(豊臣・羽柴秀吉)に任せ、金ヶ崎城に残した。
信長は近江豪族の朽木元綱の協力によって朽木谷を越え、わずか10人ほどの家来とともに京へ辿り着いたという。
金ヶ崎城の藤吉郎は蜂須賀正勝とともに、追いすがる朝倉軍を抑えて信長が逃走する為の時間を稼ぐ。
自身が金ヶ崎から撤退するときは、明智光秀と池田勝正の援護によって辛うじて脱出したという。