弥生時代

弥生時代のまとめ

弥生時代

目次

稲作の伝来

紀元前500〜600年頃、九州北部に住む人々が、大陸より伝来した稲作を手掛け、弥生式土器や金属器を使い始めた。
これが弥生文化の始まりであり、瀬戸内海を東に向かって普及拡大していき、近畿一帯にまで伝播したのである。
三世紀ごろには濃尾平野を経て、静岡の登呂遺跡にまで、稲作が到達している。
しかし、関東まで稲作が到達したあたりから、稲作の普及があまり進まなくなるのである。
東日本では、無理に稲作を行わなくても、食料的に生活に困らない環境にあった為と考えらえる。

弥生時代
弥生時代復元画

弥生時代復元画

従来、弥生文化は、西日本に農耕社会が成立する紀元前5世紀の初め頃に成立し、やがて紀元前4世紀頃には、北海道と南西諸島をのぞく日本列島のほとんどの地域が、食料生産の段階に入ったとされてきた。しかし、近年、AMS法を用いた年代測定により、水稲耕作の開始時期が紀元前約1000年前後であるという研究成果が発表され、弥生文化の始まりが従来よりも数百年遡る可能性が出てきている。(『山川 詳説日本史図録』より引用)

農具と灌漑の発達

弥生時代の中期ごろまでは木製の鍬(くわ)や鋤(すき)、石製のの鎌や包丁などの農具が使われていたが、後期には鉄製農具へと変わり、それに伴って収穫量も増大していく。
また、弥生時代前期の水田は自然の低湿地を利用する湿田だったが、弥生中〜後期には、人工的な灌漑施設を用いた乾田が増え、より生産性が高まった。

弥生時代の農耕器具(佐賀県吉野ケ里遺跡)

弥生時代の農耕器具(佐賀県吉野ケ里遺跡)

弥生時代の農耕器具(佐賀県吉野ケ里遺跡)

弥生時代の農耕器具(佐賀県吉野ケ里遺跡)

稲作の起源地と伝来ルート

現在(2016/12)、稲作の起源地は、中国雲南(うんなん)地方、インドアッサム地方と考えられている。
その後、長江下流域まで伝播し、山東半島(中国華東地区)から朝鮮半島を経て日本に伝わったとする説が有力である。
しかし、稲作伝来ルートに関しては、正確な事は分かっておらず、以下の諸説がある。

福岡市板付遺跡で発掘された炭化米

福岡市板付遺跡で発掘された炭化米

船着場所再現模型(長崎県原の辻遺跡)

船着場所再現模型(長崎県原の辻遺跡)

日本の稲はジャポニカ米とインディカ米の二種類

なお、日本の稲は主にジャポニカ米インディカ米の二種類がある。
近年の遺伝子考古学によると、インディカ米は朝鮮半島には存在しない事が明らかになっており、長江下流域からの直接ルートが最も早かったとする意見もある。

  • 山東半島から遼東半島(中国東北部)を経由して朝鮮半島に伝わったとする説
  • 長江下流域から直接日本へ伝わったとする説
  • 南西諸島を経て伝わったとする説
稲作の伝来ルート

稲作の伝来ルート

石器から金属器へ

鉄器の普及で、農具と武器が発展する

弥生時代前期、刃物として石器が使われ、中期には朝鮮半島から鉄がもたらされ、鉄器の生産が始まった。
後期には鉄器が全国的に普及し、石器は殆ど使われなくなっていった。
さらに、鉄器は工具から農具へと変化する事で、農耕にに飛躍的な発展をもたらすが、同時に武器としての使用を始まっていく。
結果、鉄製の武器が戦争の道具となり、後の王権の成立に大きな役割を果たす事となる。

吉野ケ里遺跡の鉄製品

吉野ケ里遺跡の鉄製品 農具や工具、武器などの多数の鉄器、鉄製品が出土。朝鮮半島製や中国製の鋳造斧なども存在

吉野ケ里遺跡の臼と杵と農具

吉野ケ里遺跡の臼と杵と農具 遺跡南西の水田となっていた低地ではさまざまな農具が、容器や祭祀具、建築部材などとともに出土

淡路島で鉄器が造られていた

2017年(平成29年)、兵庫県淡路市の舟木遺跡で大型竪穴建物跡が発見、土が赤っぽく焼けた炉の跡があり、鉄器を生産する工房があった。
舟木遺跡は標高約200メートルの山あいにあり、周辺の多くの集落をまとめる役割を担ったと考えられる

鍛冶工房とみられる竪穴建物跡(舟木遺跡)(写真 淡路市教育委員会)

淡路島の鍛冶工房とみられる竪穴建物跡(舟木遺跡)(写真 淡路市教育委員会)

儀礼・宗教の道具として普及した青銅器

青銅器も鉄器とほぼ同時期に日本に伝わっており、朝鮮半島から渡来した工人たちによって国内での青銅器鋳造も始められる事になる。
当初、青銅も武器として使われていたが、後期にはもっと丈夫な鉄製の武器が普及した為、青銅は祭器や権力の象徴として発達する。
宗教目的に用いられるようになった青銅器は、武器として使われていた事より大型となり、実戦では使えないサイズの銅剣や銅矛、より巨大な銅鐸(どうたく)や、青銅製祭器が製造されるようになった。
なお、現在発掘されている青銅器は、日本各地によって特徴が異なっており、同時の西日本には、それぞれの青銅器を共通祭器とする、異なる文化圏が形成されたいと考えられる。

島根県加茂岩倉遺跡の銅鐸

島根県加茂岩倉遺跡の銅鐸

重要な役割を果たした鏡(青銅鏡)

弥生時代の鏡は青銅製で、時代の経過とともに祭祀用として使われるようになったようだ。
弥生時代は祭祀の儀式が重要視されたが、その中で青銅器は重要な役割を果たした。

権力者の象徴だった銅鏡

銅鏡も祭祀の儀式で用いられたが、北部九州では甕棺墓に副葬された。
特に須玖岡本遺跡や三雲遺跡など玄界灘沿岸の地域では、数十面の鏡を副葬した甕棺が出土している。甕棺に葬られたのは有力者や司祭者に限られており、銅鏡が権力者の象徴だったことをうかがわせる。

平原遺跡出土の『内行花文鏡』(伊都国歴史博物館)

平原遺跡出土の『内行花文鏡』(伊都国歴史博物館)
平原王墓から出土した直径46.5センチという日本一の大きさを誇る超大型の内行花文鏡、文様は太陽の光の筋を表現したものと考えられている

鏡は朝鮮半島製と日本製とがあった

朝鮮半島では三国時代以前から鏡の文化があり、約770面の鏡が出土している。(藤田憲司氏の著書『邪馬台国とヤマト王権卑弥呼の「鏡」が解き明かす(えにし書房)』より) この多鈕鏡が海を渡って日本列島に伝わり、九州から近畿、さらには中部地方まで広まっていったのである。
ただし、鏡の全てが朝鮮半島経由というわけでもない。弥生時代の後期初頭には青銅鏡の国内生産は始まっており、近年では紀元前2世紀頃から国内でも生産された可能性が指摘されている。(福岡県春日市の須玖タカウタ遺跡から青銅鏡を造る際に用いられる石製鋳型が発見されたため)

三角縁神獣鏡

島根県雲南市の神原神社古墳から発見された「三角縁神獣鏡」には「景初三年」という魏の年号が記されている。「景初三年」とは西暦239年で、卑弥呼が初めて魏に使いを送った年と一致する。
『魏志倭人伝』にも「魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡100枚を授けた」という記述がある。また、三角縁神獣鏡は中国から贈られた可能性が指摘されるため、卑弥呼の鏡ではないかという説もある。(ただし日本国内で三角縁神獣鏡は500面以上発見されている)

「三角縁神獣鏡(黒塚6号鏡)」黒塚古墳(奈良県天理市)

「三角縁神獣鏡(黒塚6号鏡)」黒塚古墳(奈良県天理市)出土(奈良県立橿原考古学研究所 国(文化庁)蔵 阿南辰秀氏撮影)

環濠集落と支配階層

弥生時代の人々が生活していた住居は縄文時代からほとんど変わってはいなかった
しかし、縄文時代には見られなかった特徴として環濠集落が挙げられる。
これは住居群を、外敵から守るための深い濠と冊で囲んだ集落の事で、そのルーツは朝鮮半島などから渡来したと思われる。
環濠集落が作られた理由は、農耕が発達するに伴って、村の中では貧富の差が生じ、次第に人々を指導する有力者が台頭してきた為、その拠点として発展していったのだ。

吉野ケ里遺跡の環濠集落

吉野ケ里遺跡の環濠集落

弥生時代の集落の様子(佐賀県吉野ケ里遺跡)

弥生時代の集落の様子(佐賀県吉野ケ里遺跡)

環濠と土塁、城柵(佐賀県吉野ケ里遺跡)

環濠と土塁、城柵(佐賀県吉野ケ里遺跡)

後期の環濠集落

現在の佐賀県にある吉野ケ里遺跡は環濠集落の代表格であり、弥生時代の中期から後期にかけて栄えた国の一つであると考えられている。
後期の集落には、堀の内側にさらに堀があり、その場所な内郭と呼ばれており、物見櫓などの大きな建物が建てられていたのだ。
農作業は、集落毎に共同で行っており、それをまとめる強力な指導者がいたと考えられており、そこから集落内に階級、権力者と民という分離構造が出来上がっていったのである。

復元された北内郭

復元された北内郭(A字形に環壕と土塁、柵によってかこまれた空間に物見櫓4基と大型建物、高床建物、竪穴住居)

竪穴式住居外部(佐賀県吉野ケ里遺跡)

竪穴式住居外部(佐賀県吉野ケ里遺跡)

竪穴式住居内部(佐賀県吉野ケ里遺跡)

竪穴式住居内部(佐賀県吉野ケ里遺跡)

復元された弥生人の顔

下の画像は、鳥取県の青谷上寺地遺跡から出土した弥生時代後期の人骨をもとに復元された弥生人の顔。父は縄文系、母は渡来系という混血とみられ、両方の特色を受け継いでいた。彫りの深い縄文人の特色と、鼻が低く面長の渡来人の両方の特色を併せ持っている。(鳥取県とっとり弥生の王国推進課)
[顔]上下に長く平面的、[目]一重で細い、[鼻]鼻幅は細く高さは低い、[眉]半円状で薄い、[唇]薄い、[推定身長]男性/164cm女性/150cm

復元された弥生人の顔、鳥取県とっとり弥生の王国推進課

復元された弥生人の顔(鳥取県とっとり弥生の王国推進課)

弥生人の食生活

代表的な食材は米(もち米だった可能性も指摘される)だったが、ヒエやアワ、ムギといった雑穀の他、鹿や猪、鮭、蛤なども食していた。
豚だけでなく、犬まで家畜化して、必要に応じて解体していた。
また、『魏志倭人伝』には、夏も冬も生野菜を食べ、酒が好きだったと記されている。
>> 弥生時代の食事・主食

土地あたり、現在の1/5の収穫量だった米

縄文人は鹿や猪、鴨、ドングリ、クリ、蛤、鮭など多彩な食材を得ていた。対して、弥生人は稲作に長けていたが、もちろん米ばかり食べていたわけではない。
当時の稲作技術で得られる米の収穫量は、1反(約1000平方メートル)あたり100キロ程度と、現在の5分の1以下でしかなかった。
必要な耕作面積とその労力を勘案すれば、とても主食とするに足りるコメを収穫するまでには至らなかった。

弥生時代の農作業風景の復元模型(大阪府立弥生文化博物館)

弥生時代の農作業風景の復元模型(大阪府立弥生文化博物館)
木製の鋤や鍬を使って田を耕し、田植えの時には田下駄や田舟を使用。稲を刈る際には石包丁を、脱穀するための臼や杵なども用いられていた。

米は粥に近いモノで、食器や食材は豊富だった

調理方法は、大きな壺形の土器に貯蔵していた米を、他の雑穀などと共に甕形の土器に入れて炊いて粥のようにしたとみられる。
使用された土器はシンプルなもので。高温で焼かれたため、薄いながらも硬いもだった。
皿や高盃に食材を盛り付け、取り分けて食していたとも。地域によっては、木製のスプーンを使用していた。

弥生時代の秋の食事、静岡市立登呂博物館

弥生時代の秋の食事(静岡市立登呂博物館)

酒造り

弥生時代にはすでに、口の中で米を噛んで吐き出したモノを発酵させるという方法で、酒造りが行われていた。酒は邪気を祓うとも信じられ、祭祀にも用いられた。

弥生時代の衣装

『魏志』倭人伝によれば、男は幅の広い布をまとっただけで、木綿で頭を巻いていたという。
女は貫頭衣という穴を開けた布を頭から被っていた。おそらく腰紐程度のものを巻きつけていたと思われるが、髪の毛はおさげ髪のままであった。
ただし、この貫頭衣が南方系の習俗であったことにも注意を払う必要がある。入れ墨の習慣も南方系である。

一般身分層の衣装

一般身分層の衣装
一般的な衣装は、貫頭衣に首を通して腰紐を巻いただけという簡素なものであった。しかも、男女とも裸足というのが当たり前で、髪の毛は男だけが結んでいた。

上位身分の祭の衣装

上位身分の祭の衣装
各地で出土した埴輪や壁画などに登場する女性の衣装は、大陸の影響を色濃く受けたものが多かった。特に身分の高い女性たちは、海外の先進文化を率先して受け入れていた。

弥生時代の身分階層

大人層(上位身分)(だいじん)
王・王女、司祭者など。権威と統治能力を有したクニの支配者層や、祭祀、行政の中心を担分った階層を示す。大きな住居に住み、層大規模な墓をつくり権威を誇示した。
大人層(下位身分)
首長、青銅器の工人など。王、王女、司祭者などに次ぐ身分を有する。クニの各地域、各氏族を支配する。職人の中にもこの身分をもつ者が存在した。
下戸層(げこ)
一般工人、呪術師、兵士など。一般身分層で農業などに従事した。また、大人層の下で課せられた労役にもついた。下戸は大人に道で層会うと、相手への恭順を示したという。
生口層(せいこう)
大人層に隷属した身分の人々。もっとも下層に属したいわゆる奴隷階層。ムラや小国の間の戦争奴隷で、物として扱われ、時に交易品にもされた。

弥生時代、集落ごとに文字が存在した可能性

漢字は古墳時代以降

日本に文字の文化が入った正確な年代は不明だが『日本書紀』には、古墳時代に百済から渡来し王仁という人物が漢字を伝えたことが記されている。

下稗田遺跡の板石

しかし、北部九州にある弥生時代の遺跡で、文字を書くときに使用した硯の発見されており、そのため、弥生時代にも文字が使われていた可能性が高くなった。
2020(令和2年)10月には、福岡県行橋市の下稗田遺跡で出土した板状の石3点が、紀元前150年頃の硯の可能性があることが報じられた。
硯の多くは、拠点集落とみられる大規模遺跡から発見されている。そのため、大集落には識字階級がそれぞれ存在した可能性がある。

下稗田遺跡で出土した弥生時代の硯とみられる板石(所蔵行橋市教育委員会)

下稗田遺跡で出土した硯とみられる板石(所蔵行橋市教育委員会)

弥生時代の墓の種類

土壙墓
穴を掘って遺体を納めるという縄文時代から行われていた埋葬方法で、弥生時代に入っても行われている。穴の大きさは、伸展葬の普及により縄文時代よりも広がった。土壙の内外に礫を配置した配石墓などもあった。
甕棺墓
縄文時代から行われていた墓制で、乳幼児を埋葬するために用いられていた。弥生時代に入ると、成人の埋葬にも使用された。支配階一級の出現によって、青銅器製の副葬品などが埋納されることもあった。
支石墓
朝鮮半島に多く見られる墓制で、日本でも九州北西部を中心として出土している。数個の支石の上に甕棺や石棺を納め、その上に天井石を載せるという大掛かりなもの。渡来系の有力者の墓が多かった。
箱式石棺墓
支石墓に伴う形で普及した墓制で、板石を箱状に組み立てて棺としたもの。主として瀬戸内海以西で数多く見かけることができるが、それ以東にはあまり普及しなかった。また、木製の棺を用いた木棺墓もあった。
墳丘墓
弥生時代の終盤に出現した墓制で、墓室の上に盛り土をしたもの。直径15メートル程度の円丘や、一辺が20メートル程度の方形などが築かれることが多かった。この墓制が、後の古墳へと繋がっていく。

小国の分立と戦争

吉野ケ里遺跡のような集落は、九州北部や近畿地方を中心に点在していた。
防御設備が施されていたのは、外敵に対して備えていた為であり、各地の遺跡から発掘された弥生時代の人骨には、明らかに人為的に傷つけられたと思われるものが多く見つかっている。
これは、集落間において激しい争いが行われていたという証拠である。

想像復元された卑弥呼の宮殿模型

想像復元された卑弥呼の宮殿模型
大阪府立弥生文化博物館提供

長い戦争の歴史の始まり

個人同士での諍いによる争い程度であれば、縄文時代以前にもあったであろう。
しかし、武装した集団同士が争う戦争が始まったのは弥生時代からである。
なぜ、弥生時代から戦争が行われるようになったかというと、農業が盛んになり、食料が豊かになる事で領土という概念が生まれ、そして領土の奪い合いが始まったのだ。

農業の発展が戦争を生む

農業の発展が戦争を生む

戦争の火種は沢山あった

人口が増えすぎた事で、より豊かな土地を求めたり、天災などによる飢饉から、自分たちの領土からの食糧では不足した為など、様々な理由から戦が行われたのである。
また、過剰に取れた作物は、高床式倉庫などに保管していたのだが、こういった食料財産も争いの原因となったと考えられる。
なお、当時の中国の歴史書である「後漢書 東夷伝」には、当時の倭国(日本の事)を「大いに乱れ」と記されている為、やはり争いが絶えなかったのである。

弥生時代の戦士 大阪府立弥生文化博物館

弥生時代の戦士、木製の盾や鎧に朱色の彩色が施されている(大阪府立弥生文化博物館)

弥生時代の甲冑復元予想(佐賀県吉野ケ里遺跡)

弥生時代の甲冑復元予想(佐賀県吉野ケ里遺跡)

なぜ「弥生」時代というのか

東京都弥生町遺跡が名称の元になった

明治17年(1884)、現在の東京大学近くの向ヶ丘弥生町で、16歳の学生が見たことのない土器を発見した。この土器が使われ、米作りが始まった時代ということで、弥生時代という名称ができた。

邪馬台国について

邪馬台国の所在地

九州説と畿内説で論争が続く

邪馬台国がどこに在ったかはわかっていない。邪馬台国の所在地は古代史最大の謎とされ、九州説と畿内説の論争が300年以上も続く。
考古学者の高島忠平氏は「私は九州に邪馬台国があったほうが、日本の国家史を理解するうえで合理的だと考えています。ただし、畿内に邪馬台国より大きな国があったことを否定しているわけではありません。」と語っている。
>> 邪馬台国はどこにあった? >> 邪馬台国とヤマト政権の関係

邪馬台国の時代の九州北部の小国『詳説日本史図録』山川出版より

当時の九州北部の小国、対馬国・一支国・末盧国・伊都国・奴国までは比定地がわかっている(『詳説日本史図録』山川出版より引用)

邪馬台国論争 帯方郡より邪馬台国への道程

邪馬台国の所在地については、近畿説と九州説が有力である。九州説では、「魏志」倭人伝に記された帯方郡から邪馬台国にいた道程で、伊都国以降の国々を伊都国を中心に放射状に位置づける解釈によって、邪馬台国を九州北部にあったとする。近畿説では、伊都国以降の方位について南は東の誤りと解釈し、邪馬台と大和の音の一致、3世紀の大型墳丘墓や大規模集落遺跡の存在などを説の根拠とする。(『詳説日本史図録』山川出版より引用)

女王 卑弥呼

その頃の中国では「後漢」が滅び魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代となっていた。そして、当時の歴史書である「魏志」に当時の日本のようすが記されている。
魏志倭人伝」によると、当時の倭国の争いは邪馬台国を中心に30国程の小国連合が成立する事で収束した。そして、その連合の頂点には女王卑弥呼が居いたという。
卑弥呼は「鬼道を事とし、よく衆を惑わす」と記され、不思議な力の事を持っていたとの事である。※「鬼道」とは神様の言葉を聞く事が出来る「シャーマニズム」などと呼ばれるもの。
国の政務は卑弥呼の弟が行っていいたようで、卑弥呼がどこまで政務に関わっていたかは不明である。

祭祀の様子(復元模型)

卑弥呼の祭祀の様子(復元模型)
佐賀県教育委員会提供(吉野ケ里遺跡)

再現された卑弥呼の食事

再現された卑弥呼の食事
前列中央に、弥生時代の米の主流である赤米の強飯がある

狗奴国との争いと卑弥呼の死

邪馬台国は南に位置する狗奴国(くなこく)と争っていた。247年に卑弥呼は魏の支配地域であった朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)に使いを送り事情を報告している。
その翌年、卑弥呼が亡くなったため、代わりに男の王が即位しているが、国は乱れてしまった
>> 狗奴国はどこにあったのか

卑弥呼の死因とは

『魏志倭人伝』には卑弥呼の死は「卑弥呼以死」とあるのみで、具体的な死因などは描かれていない。しかし、中国の史書にみられる700件以上の「以死」の用例を調べあげた考古学者の岡本健一氏は、その内容が刑死や戦死、自殺など、自然死ではない凄惨な結末ばかりであるとのこと。
狗奴国との抗争で戦局が悪化し、その責任を取るよう魏の使者が卑弥呼に厳しく迫った可能性も考えられる。

二人目の女王

そこで壱与(いよorとよ)と呼ばれる少女が王に即位すると争いは治まり、国は平和になったという。
卑弥呼の死の原因はよく分かっておらず、自然死であったという説から、狗奴国との争いに敗れてしまい、その責任を取るために殺害されたなどの説があるが、どれも定説となってはいない。

魏志倭人伝

『三国志・魏志倭人伝』(宮内庁書陵部)。
狗奴国や壱与の事は『魏志倭人伝』に記されるが、日食の事などは記されていない

皆既日食と邪馬台国

近年の科学調査では、西暦248年9月5日に九州北部で皆既日食があった事が確認されている。
日本に関わらず、世界各地の古代文明では太陽の光が生命の源であると理解している事が多かった。
もしかしたら、皆既日食を見た邪馬台国の人々は、これを卑弥呼の鬼道の力が衰えたと考えたのかもしれない。
なお、邪馬台国の所在地に関しては、近畿説と九州説があるが、これも現在不明である。

邪馬台国は何処だったのか

邪馬台国は何処だったのか

弥生時代の人物

卑弥呼

卑弥呼

卑弥呼は弥生時代後期の邪馬台国の女王である。
当時の倭国を治めていた。
卑弥呼に関する記録は中国の歴史書にのみ記述されている。

卑弥呼


壱与

卑弥呼の後継者とされる女王・壱与(出生:235年)はその後も中国への朝貢を続け、倭国の安定を図った。
壱与は、卑弥呼の血縁者だったとみられ、卑弥呼の死後に13歳の若さで即位した。
壱与を最期に邪馬台国は歴史からその存在を消すこととなる。

壱与

徐福

徐福は、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の人物。
斉国の琅邪郡(現・山東省臨沂市周辺)の出身。
始皇帝の命を受け、多くの若い男女と技術者を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、平原広沢の地を得て、王となり戻らなかったとされる。
徐福は日本を訪れており、大陸の沢山の先進技術を伝え、日本の発展に大きく貢献した。

徐福

3世紀 弥生時代の東アジア

3世紀 弥生時代の東アジア


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