邪馬台国とヤマト政権

邪馬台国とヤマト政権の関係

日本列島最初の統一王朝であるヤマト政権(ヤマト王権)の成立は、歴史書に記述がない3世紀後半とされ、邪馬台国との関係性が議論されている。
ヤマト政権が邪馬台国を“継承”したのか、それともヤマト政権は全く別の新興勢力だったのか?
邪馬台国とヤマト政権の関係性についてみてみる。

邪馬台と大和の関係

邪馬台国とヤマト政権の関係性を考える上で、複数のポイントがある。
先ず名前が似ている。
厳密には「yamatai」と「yamato」で微妙に発音は違うが、そもそも「邪馬台」とは当時の中国人が、日本語の読みに対して近い発音の漢字を当てただけであるので、「yamatai=yamato」と考える事も十分可能である。
次に、両者が存在した年代だが、邪馬台国が存在したのは3世紀頃で、ヤマト政権が間違いなく存在したのが4世紀頃、原始的なヤマト政権の母体が3世紀に存在した可能性は十分にある。
では、邪馬台国とヤマト政権の関係性とはどんなものだったのか?
邪馬台国がヤマト政権(後の大和朝廷)へと発展していくのか、もしくは名前が似ているだけで全くの無関係だったのか?
その手掛かりとして、ヤマト政権初の「首都」であった可能性の高い「纏向遺跡」を見てみよう。

日本最古の計画都市「纏向」

政治的意図を思わせる都の構造

奈良盆地の東南部に広がる纏向遺跡は、邪馬台国畿内説における「卑弥呼の都」の最有力候補と考えられている。
一般的に遺跡は小さな弥生集落から徐々に拡大していく経過が視られるものだが、纏向遺跡は2世紀末から3世紀の初頭頃、直径約1qにも及ぶような巨大集落が突然、それも計画性を持って誕生しているのだ。
そして4世紀の半ばには、唐突に、集落から人々が姿を消してしまったのである。
この特異な出現状況から、纏向遺跡はある時期に人工的(政治的・意図的)に作り出された、日本列島初の都市計画に基づいた「首都」だったのではないかと考えられるようになったのだ。

広大遺跡の数%まで解明済み

遺跡の本格的な調査が始まったのは1971年で、以来50年近く研究と発掘が続けられているが、住宅や田畑が密集する奈良盆地の土地柄もあり、東西約2qに渡り広がると想定される遺跡の数%程度しか調査出来ていない。
それでも、そのたった数%の範囲から、画期的な発見が続出しているのだ。

方角を揃えた建物群

近年の発見で特に注目されたのは、2009年に確認された大型建築物の遺構だ。
南北約19m、東西約12mにも及ぶ大きな建築物を含む独立した3つの建築物が中心軸を揃えて東西に並び建てられていた。

纏向はヤマト政権最初の都?

これまで吉野ケ里遺跡などで、弥生の大型建築は少なからずみられるが、複数の建築物が明確に角度を揃えて規則的に配列されている例は、弥生どころか古墳時代を通じても他には確認されていない。
東西南北の方位も意識した配置になっているという指摘もあり、纏向遺跡は、計画性を持った国内最古の建築群なのだ。
さらにこの3棟の延長上に新たな建物が発見され建物群のエリアは、東に広がっている。
また、纏向では建物以外にも、植物の種子や花粉が見付かっている。

堀や水路まで整備

全長3q近くにもなる護岸された大溝が纏向周辺の古墳を繋ぐように掘られており、古墳同士を結ぶ運河が整備されていた可能性もある。
木製の樋(とい)を用いた導水施設もあり、水を用いた「禊」の場が作られていた事も分かった。
樋の堆積物には大量の微生物跡があり、纏向の用水路は排泄物を流す機能も備えていたようだ。

植物を栽培・管理していた纏向

ベニバナ

例えばベニバナの花粉が見付かっているが、ベニバナは薬用や高級染料として重宝された植物である。
発見された花粉の量から、ベニバナを栽培する「畑」が作られていた事も分かっている。

バジル

更に日本最古のバジルの花粉が見付かっている。
このバジルは大陸から交易にもたらされたモノだと考えられるが、大陸から九州を通じて、九州から纏向までの交易ルートが存在した事を裏付ける。
邪馬台国が九州であれ畿内であれ、纏向の時代には既に、全国的な交通網が存在していたのだ。

桃園

また、3000粒近い大量の桃の種も出土しているが、桃も花粉が確認されており、桃園が作られていた可能性が高い。
宮殿に桃園を備えるのは中国の王宮の仕様であり、ここから纏向の設計者が中国の制度によく通じた人物だった事が推測できる。

纏向の主人は「卑弥呼」だったのか?

纏向遺跡を造り、ここに住んだのは果たして誰だったのか?
時代や規模、施設の機能からここを「卑弥呼の王宮」とみる事も出来なくはないが、遺跡から出土した木製の鐙(馬具)に注目して遺跡の成立年代を4世紀まで下げる必要があると見方もある。
纏向に王宮が見付かったのであれば、それが古代天皇家の宮殿である可能性を考えなければならない。

纏向の主人は古代天皇?

記紀には、崇神天皇の瑞籬宮(みずかきのみや)、垂仁天皇の珠城宮(たまきのみや)、景行天皇の日代宮(ひしろのみや)と、3代の天皇が纏向の地に宮を設けたと記されている。
とすれば、纏向遺跡の巨大建築物はこの3代のうちのいずれかの宮殿だった可能性が高い。
勿論、古代の天皇についてはその実在性を疑問視する説もあるので、単純に誰と比定する事にも問題は残る。

何故、卑弥呼は記紀に出てこない?

仮に纏向が卑弥呼の宮殿だとするなら、邪馬台国とヤマト政権はどう関わっているのか?
邪馬台国がヤマト政権になったのだとするなら、何故、記紀には卑弥呼が出てこないのか?
卑弥呼が天皇家の祖先であったならば、記紀にその名が現れない理由が説明できない。
卑弥呼は神功皇后アマテラスとして記紀に登場しているのではないか、という声もあるが、どれも定説にはなっていない。

纏向は西本州の首都だった?

纏向からは、出雲や吉備など本州の各地域の土器が大量に出土しており、纏向には本州西部から大量に人やモノが集まっていた事は間違いない。
これらの事から、纏向は北九州の邪馬台国に対抗し、各地の王が協力して打ち立てた新しい政権の首都だった、と考える事も出来る。

九州勢力が東へ渡った可能性

北九州にあった邪馬台国が纏向まで「遷都」したという東遷説もある。
神武天皇の東征の様に、何らかの勢力が九州から畿内・大和へ移っていった可能性も否定はできない。
しかし、その為には莫大な労力が掛かるであろう遷都を決断した理由の合理的な説明が必要になってくる。
同一の勢力が、そっくりそのまま北九州から纏向へ移り住んだ可能性は考えづらいのだ。

結論、邪馬台国とヤマト政権の関係は分からない

大王墓とされる多くの古墳に囲まれた奈良盆地の纏向遺跡が、ヤマト政権と何らかの関係がある事は間違いないだろう。
邪馬台国が発展してヤマト政権になったのか、邪馬台国を倒した勢力がヤマト政権になったのか、邪馬台国は記紀に記される磐井氏のような九州豪族だったのか、又は全く別の事実があるのか。
現段階では、何も結論づいてはいない。

【ヤマト】の語源について

大和・倭・日本、すべて「ヤマト」と読む

「ヤマト」の漢字表記は非常におおい

古代に日本列島を統治した「倭国」のことを国内では「やまとのくに」と呼んだ。
漢字表記は、「大和」「倭」「日本」などいくつかあったが、これを当時「やまと」と読んだことは、たとえば『万葉集』の「山跡乃国(やまとのくに)」や「山常(やまと)」などといった表記や、『日本書紀』神代上・第四段に「大日本〔日本、此耶麻騰(やまと)と云ふ。下皆此に效へ〕」とあることによって知られている。

【三輪山の麓】から「やまと」になったか

「やまと」は畿内だと元は大和国城下(しきげ)郡大和郷(現在の奈良県天理市から桜井市)地名であって、原義はここにそびえる【三輪山の麓】という意味ともされる。
もともとこのような小さな地名であったものが、のちに大和国(現在の奈良県)の国名となり、さらには国家の名前にまでなった。
「倭国」や「日本国」を普通には「やまと」と読めないにもかかわらず、そう読むのはこうした事情があるからである。

九州の佐賀平野(福岡)にも「ヤマト」あり

九州福岡県(西海道/筑後国)にも「山門」という地名があり、こちらも邪馬台国九州説においてちょうどいい場所に「ヤマト」の地名が残っている。

全国に「ヤマト」があり

『魏志倭人伝にみえる「邪馬台国」を「ヤマタイ」国だけではなく、「ヤマト」国とも読む人もいる。
3世紀初頭から半ばにかけて卑弥呼が中心地としていたのは、この邪馬台国であった。筑前国や筑後国、またそれ以外にも「ヤマト」という地名は存在しており、邪馬台国がこれらの地名に由来する可能性も当然のこる。
残念ながら、地名から邪馬台国の場所を比定するのは不可能である。


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