第10代天皇 崇神天皇

崇神天皇 実在性のある最初の天皇

目次

初期ヤマト大王、纏向遺跡の主とも

御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称えられる

崇神天皇は学術上、実在の可能性のある最初の天皇と位置付けられている。(ただし、その存在を裏付ける物的証拠は見付かっていない)(学術的には「崇神大王」とも表記される)
奈良県桜井市の三輪山麓を根拠地に領域を広げ、ヤマト政権の基盤を確立したとみられている。
『日本書紀』にて、崇神天皇12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と称えられている。

崇神天皇(大王)、10代天皇とされるが崇神が初代であったともいわれる

日本書紀で120歳、古事記で168歳の長寿

崇神天皇68年12月、120歳で崩御(『古事記』では戊寅年12月崩御、168歳)した。 崇神天皇が実在した場合の実年代は3〜4世紀とされ、纏向遺跡の主であった可能性も指摘される。

  • 和諡:御間城入彦五十瓊殖天皇
  • 在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日
  • 生没:開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日

奈良県桜井市に所縁、父は欠史八代、子は11代天皇

父は9代・開化天皇(欠史八代)、母は伊香色謎命、皇后は御間城姫、子は11代・垂仁天皇(イクメイリビコイサチ)。都の磯城瑞籬宮は、三輪山南麓の奈良県桜井市金屋にあったとされる。崩御陵所は山邊道勾岡上陵(墳丘長242mの前方後円墳)。

10代・崇神天皇の主な事績

天照大神を伊勢神宮の地へ遷座

事蹟として、まず注目出来るのは、天照大神の遷座。
疫病の流行を背景に、天照大神と倭大国魂神を殿内に祀るのをやめ、天照大神を笠縫邑(かさぬいのむら:現在の檜原神社)に移した。これが後に伊勢神宮の誕生へと繋がっていく。(天照が伊勢神宮に祀られた理由)

三輪山の神を祀り「三輪王朝」とも呼ばれる崇神朝

崇神天皇は、オオモノヌシ(三輪山の神)を祀ったことで「三輪王朝」などとも呼ばれる。
事実、「記紀」(古事記日本書紀)に記された崇神天皇の拠点は、大和の磯城地方、奈良平野の東南の山麓、三輪山を囲む一帯である。(オオモノヌシ信仰への転換)

四道将軍の派遣、ヤマト王権の支配地域拡大

崇神天皇10年に、いまだ辺境の地域では天皇の権威=「王化」に服従するものが少ないと、四方に将軍を派遣したという。『古事記』と『日本書紀』でやや内容が違うものの、崇神の時代にヤマトの実行支配地域が広がったようだ。
>> 四道将軍を派遣し天下平定

税制「朝貢」を創設、国家建設の原点

崇神は税制の創設も行ったとされる。
四周の平定後、人民の戸籍も調査され、課役(かえき:税や労役など)の法式も定められた。
初めて男女に「調」(みつぎ:貢物)と呼ばれる税を課し、男性は獣肉・皮革を、女性は絹・布関係を納めさせたのである。
税制を敷く事によって、統治される側も安心して王権に付いていく事が出来るようになり、国家建設において非常に重要な一歩であった。

任那(朝鮮半島諸国)との通交が始まる

崇神天皇65年の条によれば、任那(朝鮮半島南部にあった伽耶諸国の日本での呼称)から蘇那曷叱知(そなかしち)という人物が朝貢したとされる。「記紀」によれば、これが日本(倭)と外国との初めての通交開始となる。ただし、信憑性は低い。(任那日本府(伽耶))

崇神&垂仁の時代にヤマト王権の原型ができたか

崇神の次に即位する11代・垂仁天皇もまた、同じ地域に宮を定めている。
崇神と垂仁の時代こそ、まさにヤマト王権の原型といえるだろう。それは3世紀から4世紀の頃と推定されている。また両天皇の陵墓と伝わる古墳もこの地域にある。
この時代の天皇たちはオオモノヌシを守り神としていたため、実態としては、天照大神が天皇の始祖とされたのはだいぶ後からだったようだ。

実際は10代が初代だったのか?

崇神が本当の初代とも、初代神武と同一人物とも

系譜のみが伝わる、いわゆる「欠史八代」の後に即位したのがミマキイリヒコイニヱノスメラミコト=崇神天皇である。
記紀編纂者は、皇統の中で崇神を重要な存在としており、初代神武天皇と同じ、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと:初めて国を統治した天皇)と称えている。
崇神天皇の登場を境に、日本が多数の原始的国家が並立した時代から、統一国家の時代に突入したという見方も少なくない。
このため、崇神を初代天皇とした、また崇神と神武を同一視する見方もある。
この点については、崇神こそが本当の初代天皇であり、天皇系譜が神武天皇まで延長されて、その間に八代が挿入されたという説が一般的である。
>> 初めて国を治めた天皇「ハツクニシラススメラミコト」

2人の「ハツクニシラス」のまとめ

  • 神武天皇の「ハツクニシラス」は、神々と繋がる天皇家の始まり
  • 崇神天皇の「ハツクニシラス」は、大和における「国」の始まり

四道将軍を派遣し天下平定

四周を平定しヤマトの支配領域を拡大

「四道将軍」という言葉は『日本書紀』のみ記載

『日本書紀』によると、崇神天皇10年に崇神天皇は、「四道将軍」として大彦命(オオビコ)を北陸道に、武渟川別命(タケヌナカワワケ)を東海道に、吉備津彦尊(キビツヒコ)を西道(吉備・山陽道)に、丹波道主命(タンバミチヌシ)を丹波(山陰道)に派遣し、服さぬ者を討伐させた。将軍には印綬が授けられた。翌・崇神天皇11年には地方の敵を帰順させて凱旋した。
大彦命はまた、武埴安彦の叛乱も鎮圧している。

四道将軍の遠征経路(別冊宝島2429号)

『日本書紀』にみる四道将軍の遠征経路(『別冊宝島2429号『古事記』と『日本書紀』神話の謎』より引用)

古事記によれば、7代孝霊と二度に分けての派兵とされる

『古事記』では四道将軍の名称は記載されていないが、崇神と7代・孝霊天皇の二回に分けて遠征がなされた記述がある。
崇神の章に、大毘古命(オオビコ)を高志道に、建沼河別命(タケヌナカワワケ)を「東の方十二道」に、日子坐王(ヒコイマス)を旦波国に。
孝霊の章に、大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命が「針間を道の口として吉備国を言向け和し」た、とある。

皇子・武埴安彦の謀反を将軍らが鎮圧

北陸に派遣された大彦命は、山城国の比良坂で不思議な歌を歌う少女に出会った。
その歌の意味を崇神の叔母にあたるヤマトトトヒモモソ姫(倭迹迹日百襲姫命:7代孝霊の皇女:箸墓古墳)に尋ねたところ、それは武埴安彦が謀反を起こす予兆であることがわかった。
そこで崇神天皇は吉備津彦・大彦命・彦国葺(和珥氏の祖)らを派遣して、武埴安彦と妻の吾田姫らを倒し、謀反を未然に防いだ。
この反乱は『古事記』『日本書紀』ともに記述される。

「四道将軍」は実在した可能性が高い

4〜5世紀にヤマト王権の支配地域が拡大している

四道将軍については『日本書紀』『古事記』のみならず『常陸国風土記』『丹後国風土記』にも同様のエピソードが記される(厳密には古事記は「四道将軍」の呼称は使われず)。
正確な年代はともかく、ヤマト王権(政権)が全国平定に乗り出す為に何某かの軍事行動は起こしたハズなので、四道将軍の説話は単なる神話ではなく、部分的に史実を含んでいても不思議はない。
その平定ルートも、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている為、ヤマトの支配地域拡大の様子が、史料と遺構で一致しているといえる。

発掘された鉄剣に将軍の1人と思わしき名称あり

将軍の1人の大彦命に関して、埼玉県の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣に見える乎獲居臣(ヲワケの臣)の上祖・意富比土危(オホビコ、オホヒコ)と同一人である可能性が高いとする見解が有力である。
>> 鉄剣銘文(文字)は貴重な史料

四道将軍

四道将軍と古墳との関係

天皇の役割「祭祀」の起源

崇神が祭祀を始めた

崇神には祭祀王としての役割もあった。
ただしそれは歴史的な事実として取れるような話ではないのだが(神々が実在した事になってしまうため)、正史である『日本書紀』に遺された以上、何か意義があったのだと思われる。

夢の中で神と交流する力を持っていた

国内に疫病が蔓延していた頃、崇神の夢のなかにオオモノヌシ(三輪山の神)が現れた。神と交流することができる神聖な力を持った天皇であった。

  1. 国中に恐ろしい疫病が蔓延、多くの民衆が命を落とす、崇神天皇は心を痛める
  2. 夢のなかでオオモノヌシがお告げ「オホタタネコに私を祀らせれば疫病は鎮まる」と
  3. 崇神がオオタタネコを探し出し、オオモノヌシを祀らせ、三輪山で祭祀を行う
  4. オオモノヌシのお告げ通りに疫病は鎮まり、国中が平和を取り戻した

疫病からクニを救う為に祈りを捧げる

崇神が天皇になって5年目に疫病が蔓延、多くの民がその犠牲となってしまい、国内は混迷、流浪する民があふれた。
崇神は朝夕、天の神と地の神(天神地祇)に祈りを捧げたが、疫病の勢いは翌年になっても鎮まることはなかった。

崇神は二神を2人の娘に祀らせた

さらに、宮中には大きな問題があった。以前に崇神は、宮中で祀っていた天照と倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を「一緒に暮らすとは畏れ多い」として、宮の外で祀ることにした。
そして、天照を娘の鍬入姫(トヨスキイリヒメ)に託して倭の笠縫邑(かさぬいむら:比定地は不明)で祀り、倭大国魂を娘の渟名城入姫(ヌナキイリヒメ)に祀らせた。
だが渟名城入姫は紙が抜け落ち、身体も痩せ衰え、神を祀る事が出来なくなってしまった。

三輪山の神の言う事を聞いても疫病は収まらず

その後、孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)に大物主(オオモノヌシ:三輪山の神)が憑依し「大物主を祀れば災いは去る」と託宣した。
しかし、その通りにしても疫病は収まらなかった。

崇神の夢に三輪山の神が現れる

ある日、崇神は夢を見た。
その夢には大物主が現れ「我が子の大田田根子(オオタタネコ)を探し出し吾を祀らせよ」と告げたという。
崇神は陶邑(すえむら:大阪府堺市)で大田田根子(オオタタネコ)を探し出し、彼に大物主を祀らせた。
倭大国魂は同じく夢の中で知った市磯長尾市(イチシノナガオチ)という者に祀らせた。

八百万の神を祀り神社を作ると疫病が収まった

崇神はこれを機に八百万の神を祀り、神祇の社を置き、神地(神社費用を賄う地)、神戸(神社に属する民)を定めた。
そうすると、崇神天皇7年に疫病は鎮まり、世の中は平和になったという。
さらに天社・国社が定められ、今なお続く、天皇の重要な役割「祭祀」の起源である。

なぜ崇神は天照に祟られたのか

もともと天皇とは天照大神の子孫であるはず。にも関わらずなぜ天照は崇神を祟ったのだろうか。

天照の命で「天皇と天照はともに」とされていたが…

崇神の宮殿に天照が祭られていたのは、神代からの定めに理由があった。
天孫ニニギ(天皇の先祖)が高千穂に降臨する際に、天照は自身の魂が込められた鏡をニニギに渡し、これを宮殿のなかで祀り、ともに暮らすように命じた。「同床共殿(どうしゅうきょうでん)」の神勅と呼ばれるものだ。

天皇が世俗の存在になった為、共に居られなくなった

しかし、崇神の代に、神と一緒に生活することが、神の禁忌に触れることになった。
天皇はすでに神々の世界から離れ、国を統治する世俗の存在になっていたからだ。
このことから崇神朝における疫病の流行は、オオモノヌシの祟りと同時に、天照の祟りが原因であったと考えられる。

崇神による天照の遷座が垂仁によって完成

倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいむら)に遷座された天照は、次代の11代・垂仁天皇の代に、倭姫命(ヤマトヒメ)によって伊勢の地に遷される。(伊勢神宮の起源とされる)。
天皇家の祖神を大和から伊勢に遷座することで、国家全体を守護する神へと昇華させたのだ。崇神天皇に始まった天社・国社による祭祀制度は、垂仁天皇の時代に完成したといえる。

崇神天皇は短命だった?(異伝)

崇神は『日本書紀』では120歳で崩御、『古事記』では168歳で崩御したとされ、古代の天皇らしくかなりの長寿であった。ところが『日本書紀』は異伝も伝えている。
祭祀制度を作った崇神天皇は、じつは神々の祭祀を疎かにしたので、短命であったという(日本書紀・垂仁天皇25年「一に云」)。
これはヤマトノオオクニタマの託宣として伝わるが、天皇と対抗する倭直一族(やまとのあたい)が伝えた異伝とされる。

崇神に関する説話の多くは神話的な要素を多く含んでいるため、すべてを史実と考える事は出来ない。参照には常に注意が必要である。

出典・参考資料(文献)

  • 『別冊宝島2128 完全保存版 天皇125代』宝島社
  • 『歴史道Vol.27 「古事記」「日本書紀」と古代天皇の秘史』朝日新聞出版 監修

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