なぜ大和は前方後円墳だったのか

ヤマト王権が前方後円墳を選んだ理由

目次

形状の起源を巡る研究

高位の者だけ築くことが許された

低位の者は前方後方墳・円墳・方墳などを築いた

前方後円墳は、その規模や内部構造、副葬品の充実ぶりなどから、特別な者しか築くことが許されない墓だった。 前方後円墳を築く階層に至らない者は、前方後方墳や円墳、方墳などを築いたと考えられる。

当初は畿内地域のローカル古墳だった

前方後円墳はヤマト王権の象徴として日本全国で築造されたが、当初は畿内地域だけのローカルな古墳だった。
ヤマト王権が自分達の古墳として、前方後円墳を選択した理由は正確には不明だが、奈良県橿原市の瀬田遺跡に前方後円墳の原型と思われる古墳が発見され、それが発展したともいわれる。

当初、地域ごとに多様な形の古墳が築造

四隅突出型墳丘墓、山陰地方と北陸地方

弥生時代中期以降、山陰地方と北陸地方に四隅突出型墳丘墓が出現した方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の墳丘墓である。
また、この頃、他の地域でもさまざまな形状の墳丘墓が築かれていた。

方形墳丘墓、強大な勢力が存在した丹後

例えば、近畿地方北部の丹後地方では、方形の墳丘墓が数多く造られている。
弥生後期末の赤坂今井墳丘墓(京都府京丹後市)は東西36メートル、南北39メートルの方形墳丘墓で、211個の玉類を使った豪華な頭飾りや耳飾りが出土している。
墓は内陸の盆地と海岸平野の交点に位置し、丹後地域を支配した首長の墓と推定される。

独立性を保っていた丹後で独自の古墳が造られていた

丹後は出雲と北陸の間にあるが、四隅突出型墳丘墓は見つかっていない。
海に突き出た丹後半島は重要な寄港地で、この地に強大な勢力が存在したのは間違いない。
同じ日本海交易圏にあって、他の勢力に与しない独自性を保っていたのである。

前方後方形と円形周溝墓が、畿内へ

東海から関東地方にかけては前方後方形の墳丘墓が築かれ、これが前方後方墳に発展していった。
瀬戸内中部では円形周溝墓が出現して播磨に伝わり、畿内にも拡がった。

前方後円墳は畿内のだけのローカルな古墳だった

ヤマト王権の象徴だった山のような古墳

王権にあやかり、全国の豪族が追従して築造した

古墳時代に隆盛を誇った前方後円墳であるが、当初は畿内地方だけで築かれる【ローカル古墳】だった。
その後、ヤマト王権の勢力拡大に合わせて全国に拡がっていった。
前方後円墳はヤマト王権のシンボル的存在であったから、全国の豪族たちもそれをマネして前方後円墳を造っていったのだろう。

諸説ある、前方後円墳だった理由

弥生時代の墳丘墓が発展したのか??

それでは、円形の主丘に方形の突出部が接続した形の古墳が、なぜヤマト王権の象徴になったのだろうか。
確たる理由を突き止めることはできないが、さまざまな仮説が立てられている。
よく知られているのは、弥生時代の墳丘墓から発展したという説である。
元々は円形の墳丘墓だったが、陸橋部分で祭祀などが行われ、その部分が大型化して鍵穴状になったという考え方だ。

源流は一世紀、ヤマト王権の成立より前

奈良県橿原市の瀬田遺跡では、方形の陸橋部分がある円形周溝墓が2016年(平成28年)に見つかったが、これが前方後円墳の原型ではないかという指摘がある。
全長26メートル、直径19メートルで、2世紀後半の築造と推定される。

各地の古墳から【いいとこどり】した説

一方で、古墳の形は播磨の前方後円型墳墓をまね、葺石は山陰・北陸の四隅突出型墳丘墓をまね、といった感じで、各地方政権の墳墓の特色を【いいとこどり】したという説もある。

各地の古墳の築造技術がヤマトへ集約

いずれにせよ、畿内のローカル政権だったヤマト王権が勢力を拡げ、支配域に前方後円墳が築かれるようになったのは確かである。
各地の古墳の造り方がヤマトへ集約されていった、ともいえる。

箸墓古墳、ヤマト王権はじまりの象徴

被葬者不明の超巨大古墳

3世紀後半に築かれた全長約280メートルの箸墓古墳は、ヤマト王権の始まりの象徴ともいえる。
実際の被葬者は不明だが、宮内庁は孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命の墓に治定している。(女王卑弥呼の墓という説もある)

丹波(丹後)がヤマトに降伏し、前方後円墳が築かれる

日本海交易圏で独自の勢力を保っていた丹後地方でも、4世紀半ばには前方後円墳が築かれるようになった。
『日本書紀』には崇神天皇が4人の将軍を各地に派遣したことが記載されているが、派遣先の1つに「丹波」の地名があることから、ヤマト王権に降伏して傘下に入ったとされる。

ヤマトの支配地域に前方後円墳が築造

交渉による支配地域拡大に成功していたヤマト

ただし、ヤマト王権の地方進出は武力で荒々しく制圧するものとは限らず、オオクニヌシの国譲りにみられるような、比較的、穏便な併合であったようだ。
そのため、この地の支配者の威厳は変わらず健在だった。

各地域の豪族たちの勢力も健在だった

4世紀後半から5世紀初めには、蛭子山古墳(全長145メートル、京都府与謝野町)、網野銚子山古墳(全長198メートル、京都府京丹後市)、神明山古墳(全長190メートル、京都府京丹後市)の「日本海三大古墳」が築かれている。
古墳の形状はヤマト王権のシンボル的存在である前方後円墳で、ヤマト王権との蜜月関係がうかがい知れる。

やがて古墳築造が終焉へ向かう

丹後だけ一足早く古墳築造が止まってしまう

しかし、5世紀前半に築造された黒部銚子山古墳(全長108メートル、京都府京丹後市)を境に、丹後地方では100メートル級の前方後円墳が築かれなくなる。
築造の中心は内陸(京都府中部)に移り、6世紀には内陸で16基の前方後円墳が築かれたのに対し、丹後では2基しか造られなくなった。理由は不明である。

丹後が交通の要衝ではなくなってしまい、衰退した

日本海における交易の中心は、畿内へのアクセスがよい敦賀や若狭に移っていた。
丹後は寄港地としての重要性が失われ、衰退してしまったとみられる。

形状の起源を巡る研究

江戸時代に初めて「前方後円」を認識

海外からも【鍵穴形】に注目される

前方後円墳は、円丘から長方形の台が伸びる鍵穴のような形をしている。
古代の墳墓の形としては世界に類例がない特殊なもので、欧米では「キーホール・シェイプト・テュミュラス(鍵穴形の塚)」と紹介されることが多い。

江戸時代後期の儒学者が陵墓を調査

最初に「前方後円墳」という形を認識し、命名したのは江戸時代の蒲生君平(がもうくんぺい)という人物である。蒲生君平は勤皇の志から荒廃した天皇陵や皇后陵を調査し、『山陵志(さんりょうし)』で陵(みささぎ)の形状の特色を「前方後円」と表した。

当初は【中国の皇帝が乗る車】の形と誤認

蒲生は各地に残る「車塚」という地名から、前方後円墳の形を宮車(きゅうしゃ:中国の皇帝が乗る車)になぞらえたものとした。
だが現在では、古墳時代にそのような車は存在しなかったと考えられている。

イギリス人研究者が「円墳と方墳を結合」と解釈

明治時代には、日本の古墳研究の先駆者であるイギリス人のウィリアム・ゴーランドが、前方後円墳を「円墳と方墳が結合したもの」と推測した。
また、壺や盾など、何かを象ったものとみる説も生まれた。

弥生墳丘墓が発達して前方後円墳に?

弥生後期にすでに方丘墓や円丘墓が造られていた

現在では、弥生時代後期に造られていた方丘墓や円丘墓に突起部分が設けられ、それが前方部に発達して前方後円墳になったと考えられている。

周濠がつくられ、墳丘までの渡り土手が造られる

弥生墳丘墓は時代を経ると共に規模が大きくなり、周りに濠も築かれるようになった。
しかし、そうなると周濠に阻まれ墳丘に渡ることができなくなるので、渡り土手として一部を掘り残した。

渡り土手が一つだけに制限

このような渡り土手は、2世紀頃の墳丘墓には数カ所あった。しかし、3世紀に入るとその数が少なくなり、1つになった。これは、被葬者が眠る場所への侵入を制限する狙いがあったともいわれる。
元々は墳丘への通路として築かれた場所だったが、むしろ侵入を拒むようになったのである。

渡り土手が大きくなり、やがて前方後円墳

やがて土手の部分は高く造られ、前方部に発展していった。そして徐々に規模が大きくなり、前方後円の形状になった。
この形の変化は、弥生時代の支配者が威厳を身にまとい、近づきがたい存在に変貌したことを示している。

時代とともに前方部が巨大化

時代により少しずつ形状が変化している

前方後円墳はどれも同じ形状に見えるが、時代によって少しずつ形が変化している。
出現し始めた頃の前方後円墳は、前方部が後円部よりも細く、先端は三味線の撥(ばち)のように広がっていた。

初期は「車塚」「茶臼山」などの古墳名が在る

後円部が前方部よりも圧倒的に高く、初期の前方後円墳には「車塚」や「茶臼山」などの古墳名がある。

箸墓古墳〜初期前方後円墳の代表例

代表的な古墳としては纏向の箸墓古墳(奈良県桜井市)があり、3世紀中期から後半の築造と推定されている。
箸墓古墳の全長は約280メートルで、全国1位の規模を誇る。
後円部は5段築成(最下段は基壇的なものとして数えない説もある)で、前方部にも段があったが、後円部とはスムーズにつながっていない。

5世紀前半に前方後円墳の完成形が誕生

段が完全につながるようになったのは5世紀(400年代)前半で、「造り出し」という出っ張りが設けられ、前方後円墳の完成形態が誕生した。

前方部が大きくなり「二子山」「二子塚」の名が

元々はオマケのような存在だった前方部だが、徐々に規模が大きくなっていった。
後円部と前方部の高さがほぼ同じになり、「二子山」や「二子塚」などの古墳名も増えた。

前方部が後円部より大きい古墳が誕生

やがて後円部よりも高さがある前方部を有する前方後円墳も出てきて、前方部の最上段が後円部の最上段まで伸びるようになった。
高層化した前方部を支えるため、幅も広がっていった。
天皇陵でも、清寧天皇陵の白髪山古墳(大阪府羽曳野市)、仁賢天皇陵の野中ボケ山古墳(大阪府藤井寺市)は、前方部の幅が広がっていく“末広がり”の形状でる。

地域によって個性的な前方後円墳ができる

古墳時代後期には、前方部の幅が後円部の直径の1.5〜2倍になるものもあった。
一方で、前方部の高さがなくて平たい河内大塚山古墳(大阪府羽曳野市・松原市)など、前方後円墳の多様化も進んだ。
地域色も再び強まり、下野地方では下段が極端に広い「下野型前方後円墳」が造られた。


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