ヤマト王権

ヤマト王権〜大王(天皇)のクニ

目次

奈良盆地に栄えた連合国家

大王と豪族によって王権(政権)が世襲(維持)された

ヤマト(大和)王権は日本の王朝・原始国家(現存する中では世界最古級)。大王(天皇)の世襲によって王権が維持され(初期は非・世襲の可能性もある)、現在の日本国にまで政権が繋がる。「空白の4世紀(西暦300年代:文献史料において4世紀の日本は信用できる記述がない)」に纒向遺跡(奈良県桜井市三輪山付近)を首都(もしくは中心都市)として豪族らとの連合的な政権が成立したと考えられている。

豪族らは時代に応じて頻繁に勢力が入れ替わる

皇位(王位)が血統によって継承される一方で、政治の中心を担う豪族の地位は流動的だった。しかし、ヤマト王権の中枢を担ってきたのが古代豪族であった事は間違いない。そのため時代ごとに、さまざまな豪族の協調や対立によって日本の歴史は動いてきた。

ヤマトの豪族勢力の推移『山川 詳説日本史図録』より引用

ヤマトの豪族勢力の推移(『山川 詳説日本史図録』より引用)

ヤマト王権の時代の範囲

ヤマトの大王により倭国が統治された時代

ヤマト王権の時代の範囲については、その解釈によって諸説ある。
そもそも「ヤマト王権」とは言葉のとおり「大和(大倭)地域の王権」のことである。つまり「大和(大倭)に住む大王によって倭国(日本)が統治された時代」がその範囲といえる。

10代・崇神大王から、40代・天武天皇まで?

具体的には【王権の創始者の可能性がある10代崇神大王の時代】から【天皇号を使い始めた40代天武天皇の時代】まで、というのが一つの解釈である。

10代・崇神大王から、37代・斉明大王まで?

しかし、厳密にはいつから天皇の称号が使われ始めたかは判っておらず、“大王の時代がいつまで続いたのか”は確認できない。(天武よりもっと早かった可能性も否定はできず)
また、38代天智大王(天皇)は大和とは別の近江に遷都しており、これも「大和(大倭)地域の王権」からは外れてしまう。
さらに39代弘文大王(天皇)は“実際は即位していなかった”可能性が指摘されており、その場合は37代斉明大王(天皇)がヤマト王権最期の大王となる。

「大和朝廷」表記が修正された理由

「大和」のほか「倭」もありカタカナに統一

かつての歴史教科書では、ヤマト王権は「大和朝廷」と記されていた。
しかし、「大和」の漢字表記が出てくるのは8世紀以降で、それ以前の史料には「倭(やまと)」「大倭(おおやまと)」などの表記が見られる。
律令制定の際に表記を「大倭国」として成立したとされ、藤原京出土の木簡には「□妻“倭国”所布評大□里」とある。
ただし、7世紀以前にも「大和」の表記があったという見解があり、混同を避けるため、カタカナ表記の「ヤマト」を用いることが多い。

王権が「朝廷」らしくなったのは飛鳥時代ごろ

また、「朝廷」は天皇(大王)を中心に皇族や貴族が統治を行う統治機構の名称で、現存の史料では『古事記』が最古の初出である。
朝政(朝廷の政務)と朝儀(朝廷の儀式)が執り行われた場所を朝堂院といい、日本の都で最初に朝堂院が設けられたのは、6世紀末の小墾田宮(おはりだのみや)とされる。
本格的に朝廷らしくなったのはこの頃からなので、古墳時代前期の政治機構を「朝廷」と称するのは難しく、現在は「ヤマト王権」「ヤマト政権」と呼ぶのが一般的になっている。

謎多き初期ヤマト王権

文献史料より発掘調査を軸に研究されている

ヤマト王権に関しては信頼できる文献史料がほとんどなく、実態は不明な点が多い。発掘調査を主な研究材料としているが、『日本書紀』などの文献史料も(内容を精査しつつ)部分的に参照される。同時代の中国の文献史料は日本側の史料よりも信憑性が高いモノとして扱われる。(「倭の五王」は中国側の文献にみられる記述)

王権がどのように成立したか不明、推測するのみ

ヤマト王権がいつ、どのようにして成立したのかは明確でない。成立過程に関しては歴史がロストしてしまっており、完全に歴史を復元することはもはや不可能である。
とはいえ、巨大な墳丘を持つ古墳や集落遺跡から、その成り立ちがある程度推定できる。

邪馬台国とヤマト王権の関係

邪馬台国は3世紀(西暦200年代)に既に存在

原始的なヤマト王権は、3世紀(西暦200年代:弥生時代)にはすでに成立していたという意見もある。
3世紀前半に魏へ遣使した邪馬台国とヤマト王権との関係性については意見が分かれている。

王権が邪馬台国(九州勢力)を屈服させた可能性

畿内にあった邪馬台国がヤマト王権の母体になったという説がある一方で、畿内にあったヤマト王権が邪馬台国を滅ぼした(もしくは臣下とした)という説もある。

王権が九州を勢力下に収め始めるのは5世紀から

畿内のヤマト王権が九州を支配下に治めたのは早くとも5世紀ごろとみられ、3世紀の時点で畿内が九州を支配下においていたとは考えづらい。
邪馬台国が九州にあったなら、邪馬台国とヤマト王権は直接的には関係はなかったが、後に併合された、とみるのが打倒であろう。

畿内の地名すら記されない『魏志倭人伝』

『魏志』倭人伝には畿内を想起させる地名がほとんど見られないが、逆に、九州(マツラ・イト)や離島(ツシマ・イキ)を想わせる地名は確認できる。
それらの勢力は邪馬台国と協力関係にあったとされ、邪馬台国がはるか畿内に存在したなら(九州勢力との)まともな連絡手段が在ったのかすら怪しい。
現実的には邪馬台国は九州に在った、畿内ヤマト王権は邪馬台国とは別の存在である、と見るべきだ。

ヤマト王権の拠点は畿内

大和・河内・摂津・山城などの範囲

大和国を本拠地とする政権がいつごろ、どのような経緯で形成されたのか、同時代の国内史料がないため確たる推測は難しい。が、その中枢が大和・河内・摂津・山城などの範囲にあったことは想像に難しくない。(必ずしも大和とは限らない)

「畿内」という言葉は大化改新以降に設定か

『日本書紀』には、大化改新で「畿内国」という地域区画が初めて設定されたように記されている。 そこには、東は「名墾横河」(三重県名張市)、南は「紀伊兄山」(和歌山県伊都郡かつらぎ町)、西は「赤石櫛淵」(神戸市須磨区)、北は「近江狭狭波合坂山」(滋賀県大津市逢坂)、この四至(4地点)の内側の範囲が畿内国であると記されている。 のちの畿内(大和・河内・摂津・山城・和泉)5国とはやや異なるが、これがつまりヤマト王権の本拠地であった。 ヤマト王権を構成する中央豪族たちの本拠地は、この地域にあった。

畿内地域の豪族&大王が連合して勢力を拡大したか

この地域の豪族がまず大王家を中心にして連合体的に結束し、その全体の力で四方に勢力を伸ばした、のがヤマト王権なのである。 その中核となったのが、大和と河内であった。 7世紀後半に天智大王が近江大津宮に遷都するまで、伝説の時代を除いては王の都がこの2国の外へ出ることはほとんどなかった。

纒向遺跡〜初期ヤマト王権の首都か

最古の都市遺跡、この時代の最大規模

最初のヤマト王権の中心地と考えられるのが奈良盆地南東部の一帯で、この地には纒向遺跡という最古の都市遺跡が存在する。
東西約2キロ、南北約1.5キロ、総面積が約3平方キロメートルで、この時代では最大の規模を誇る。
東西約12.4メートル、南北約19.2メートルの大型建物跡のほか、鍛冶関連施設などが見つかっている。

農耕への備えがなかった纏向都市

一方で、これだけの規模の遺跡でありながら、農耕具の出土がほとんどない。この時代は集落には農耕具が必須であり、存在しないということは政治的な意図を持つ場所であった事を窺わせる。(後の時代においても都にとって農作物は納めさせるものであり、都は直接は農耕に従事しなかった)

外敵の侵入に備えてなかった纏向都市

纒向遺跡が他の遺跡と大きく異なるのは、外敵の侵入を防ぐための堀をめぐらせた環濠集落ではないところだ。2世紀後半は「倭国大乱」と呼ばれる戦乱の時代で、大きな集落には防衛施設を設けるのが当たり前だった。
しかし、それがないということは、敵勢力に侵入されるリスクが低かったことを物語っている。

纏向都市は豪族らが協力して守っていた

ヤマト王権が単なる【巨大なクニ】だったのではなく、もっと大きな【連合的なクニ】だったことがうかがえる。
纒向は現代でいう【首都】であり、その周りを連合する友好国(クニ)に守られていたのだろう。あえて言うなら、この時点で纏向は【纏向京】や【纏向宮】とでも呼ぶべき地位にあったのかも知れない。

纏向大溝〜運搬用の巨大な水路まで存在した

纒向学研究センターの寺沢薫氏は、「纒向遺跡は政権の政治的意図によって建設された、日本で最初の都市ではないか」と指摘している。
「纏向大溝」と呼ばれる巨大な水路跡が見つかっているが、物資を運搬するために造られたとみられる。

他方からの土器が纏向に集まっていた

また、ヤマト王権の影響力の大きさは、土器からも見て取れる。
纒向遺跡で発掘された土器の15〜20%は地方産で、その生産地は関東から九州まで多岐にわたる。これほど広範囲の土器が大量に出土するのは珍しく、他の地域との交流が盛んだったことをうかがわせる。

纏向付近に巨大古墳(権力者)が多く存在

纒向が日本最古の都市である可能性を高めているのが、この地に点在する多数の古墳だ。
最も大きいのは全長約270メートルの箸墓古墳で、3世紀に造られたとみられる前方後円墳である。
これだけの規模の古墳を築くのは容易ではなく、ヤマト王権の影響力の強さを物語っている。

前方後円墳〜王権の【強さの証拠】

初期ヤマト王権の古墳は徐々に変化していった

古墳時代には多くの巨大古墳が築かれたが、その多くが前方後円墳である。(ヤマトの古墳が前方後円墳だった理由)そのため、前方後円墳はヤマト王権のシンボル(強さの証拠)であったと見ることもできる。
ただし、最初から前方後円墳が築かれていたわけではなく、初期はさまざまな形状の古墳があった。(古墳が巨大化した理由と効果)

弥生時代の墳丘墓から古墳築造が始まる

古墳のルーツは弥生時代に造られた墳丘墓(土を盛り上げた墓)で、地方ごとに独自の形式があった。
しかし、古墳時代に入ると多様性が失われ、前方後円墳が多く築かれるようになった。

各地の墳丘墓をベースに前方後円墳が誕生した

前方後円墳は鍵穴のような形が特徴的だが、実は各地で造られていた墳丘墓の要素を取り込んでいる。 例えば、墳丘の表面を覆う葺石は出雲の四隅突出型墳丘墓、墳丘の周囲に並べる埴輪は吉備の特殊器台から取り入れたものである。

基本的には【任意】で協力していた豪族たち

ヤマト王権が各地の首長による連合体制で、その証として前方後円墳という共通の墓制が築造されたと考えられる。
ただし、円墳や方墳、前方後方墳など他の形状の古墳も築かれており、初期ヤマト王権は全国をしっかり統治した独裁政権ではなく、緩やかで協調によって成り立つ体制だったと推測される。

各地の豪族らがヤマトに肖り古墳をマネ始める

前方後円墳の築造は、最初は畿内が中心だった。しかし、4世紀後半に入ると広範囲で前方後円墳が築かれるようになった。
これはヤマト王権の勢力が拡大し、各地の首長が支配下に組み込まれていったことを意味する。

大王墳にも引けを取らない【吉備の巨大古墳】

前方後円墳は5世紀初めくらいまでは必ずしも大和や河内などの大王墓が突出して大きかったわけではない。
岡山県(吉備)には全国第4位の大きさの全長360mの造山古墳、第9位の全長286mの作山古墳、次いで全長192mの両宮山古墳といった前方後円墳がある。
前2古墳に関しては、大きさ・墳形、ともに5世紀の大王の古墳に引けを取らない。
このことからわかるように、大王にとって吉備氏は重要な政権パートナーであった。5世紀後半の雄略大王に后妃を入れていることからも明らかといえる。

主な地方勢力(豪族)

吉備
中央にも影響力をもった吉備氏が統治していたと考えられている。吉備氏は『日本書紀』『古事記』にもその名がみられ、中央にも対抗できるほどの大きな勢力をもっていたと考えられる。吉備には数多くの巨大古墳がみられる。
毛野
上毛野臣、下毛野臣という勢力の名が文献史料に残る。その権力の大きさを示すのが、東日本最大の古墳・太田天神山古墳の存在であり、まだわからない点も多いが、そのほかにも大きな古墳が点在している。
出雲
出雲では、全国的にも珍しい前方後方墳が多数築造され、高い建築技術を誇ったことが伺える。近年では大和王権に列する「直参」だったのではないかとみられている。出雲大社が立っていることも力をもった要因のひとつ。
尾張
古墳時代前期には、現在の濃尾平野に古墳が多く造られた。ここで権力をもっていたのが熱田神宮の祭祀を担った尾張の国造尾張連氏である。皇族との血縁関係もあったことがあり、大きな勢力をもったと考えられる。
筑紫
現在の九州北部、福岡県八女市一帯の国造となった筑紫君は、磐井の乱で大和王権に反旗をひるがえした。最も多くの石人石馬を備える岩戸山古墳は筑紫君磐井の墓と推定され、当時の大王墓にも匹敵する規模を誇る。
紀伊
和歌山県の古墳群からは多くの武具が出土しており、軍事に長けた豪族の存在がうかがえる。なかでも紀臣は中央豪族に分類され、大きな活躍をしたという。紀直という豪族は国造を担い、800基以上もの墳墓を残している。
日向
天孫降臨の逸話がのこる日向では、九州最大の古墳群・西都原古墳群がのこっている。古墳から馬具類が出土していることが特徴的で、4世紀に伝来した馬の繁殖に適した土壌であったことから、勢力を伸長したとみられる。
丹後
日本海側の3大巨大古墳はすべて丹後に集中している。出土物からは大和王権との関連性がうかがえるものも発見されている。またガラス製品など特有の生産性を有していたこともわかっており、強い政治力をもっていたという。

鉄〜王権を支えた重要資源

古代日本では武具や道具に用いられる鉄素材は輸入に頼っていた。
鉄器そのものは弥生時代には日本に入っていたが、鉄を造り出す為の原料である鉄鉱石は国内産地が限られていたのだ。
有力豪族が存在した吉備地方では鉄鉱石が採掘されたが、ゆえに吉備氏は強大な力を有したともいえる。
当然、ヤマトは吉備の鉄資源を求めたが、王権に必要な分の鉄器を賄えるほどの埋蔵量はなかった。
> 鉄と剣の神話と古代史 > 鉄剣銘文(文字)は貴重な史料

権威の象徴でもあった【鉄資源】

当初はヤマトより九州の方が鉄を多く保有

ヤマト王権の誕生以前は、地理的に朝鮮半島に近い北部九州が倭国における鉄の交易権を握っていたとみられる。
しかし、ヤマト王権が瀬戸内海航路を使って鉄の交易ルートを確立し、九州を追い抜く勢いで力をつけていった。

鉄は実用的でもあり、権威の象徴でもあった

当時の鉄は農工具や武器という実用的な目的以外に、保持していること自体が権威の象徴となる威信財の役割も果たしていた。
鉄素材供給ル-トを掌握したヤマト王権は、各地の首長に鉄を配分することで、優位性を保ったとみられる。

王権が【鉄の配分】を調整、鉄器で力の均衡を図った

例えば、黒姫山古墳(大阪府堺市)からは24領、古市古墳群の野中古墳(大阪府藤井寺市)からは11領の鉄製甲冑の副葬品が出土している。
しかし、東国では巨大古墳でも1領〜2領程度になる。ウワナベ古墳(奈良県奈良市)の陪塚からは鉄(鉄の延べ板)が900枚近く出土したが、千葉県などで発見されるのは数枚程度だ。
ヤマト王権は鉄の配分を巧みにコントロールすることで、王族の権威づけや豪族を序列化していたのである。

王権は【鉄を褒美】に、各地豪族を飼い慣らした

畿内で生まれたヤマト王権は地方豪族を従えて勢力を拡げていったが、軍事行動による征服ではなく、平和的な手法で傘下に組み込んでいったとみられる。
そのために用いられたのが、実用性が高くて威信財にもなる鉄だった。

鉄の利権をめぐり朝鮮半島に介入

朝鮮情勢の不安定化が鉄の入手を脅かした

鉄素材供給ルートを押さえている限り、ヤマト王権は安泰だった。
しかし、鉄の供給源である朝鮮半島では争いが激化し、鉄の入手ルートが不安定になった。

鉄が得られないと王権の求心力に悪影響

倭国では鉄の生産がほとんどできないので、資源の入手が滞るといずれは供給が途絶えることになる。
そうなると、ヤマト王権が各地の首長との間に築いた優位な関係も崩壊しかねず、倭国は朝鮮半島へ積極的に進出をはかった。

朝鮮に介入するも良い結果は得られず…

しかし、倭国の軍勢は高句麗の騎馬隊に苦しめられ、著しい成果を挙げるまでには至らなかった。
その後も朝鮮半島では争いが続き、倭国は朝鮮半島で確保していた権益を徐々に失っていった。

鉄に代わり【軍事力】による支配に乗り出す

鉄によって首長をコントロールするという手立てを失ったヤマト王権は、それまでの緩やかな政治連合体から、軍事力による直接支配へと方向転換をはかった。
そして、大王(天皇)を頂点とする政治体制が構築されていった。

日本列島で行われた【たたら製鉄】

渡来人により製鉄技術が朝鮮から日本へ

一方で、4世紀末から5世紀前半にかけて行われた朝鮮半島での戦いを経て、日本列島にも本格的な製鉄技術が伝わった。
その中心を担ったのが大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人で、各地に鉄器工房が設けられた。

鉄鉱石ではなく【砂鉄】が主な素材に

とはいえ、鉄鉱石を使った製鉄には限界があるので、砂鉄をメインにした製鉄が行われた。
粘土で作った炉に原料の砂鉄あるいは鉄鉱石と還元のための木炭を入れ、風を送って炉内の温度を上げる「たたら」と呼ばれる製法で鉄を作っていた。

ヤマト王権の姓(かばね)

豪族の称号「姓」を大王が授与

大王は有力豪族に氏姓を授与することで豪族の序列を設けた。氏姓を授与するため、大王に氏姓はない。また、豪族の名称には支配地域や職業があらわされている。

中央豪族の姓

大和の有力豪族:葛城臣、蘇我臣など
特定の職能を持つ有力豪族:大伴連、物部連など

地方豪族の姓

地方の伝統のある豪族:吉備臣、出雲臣など
特定の職能を持つ地方豪族:中臣連、土師連など
地方の有力豪族:筑紫君など
直・造・首
その他の地方の豪族など:東漢直など

豪族の「氏」は地名や職掌が由来

豪族は【中央豪族】と【地方豪族】に大別される

「豪族」とは、ある地方において多くの土地や財産、私兵を有し、一定の支配権を持つ有力者とその一族を指し、ヤマト王権の拠点である畿内(大和、河内、摂津、山背)に本拠がある畿内豪族(中央豪族)、それ以外の土地を支配した地方豪族に分かれる。
広大な地域を支配する大豪族がいれば、有力豪族の支配下にあった中小豪族まで、その勢力は多様である。

「氏」は本拠地名や職掌によって付けられた

豪族は「葛城」「蘇我」などの「氏」を、血縁者の集団の名前として称した。
吉備氏や紀氏など本拠地名に基づくものと、大伴氏や物部氏などの職掌(しょくしょう)によるものがある。
氏の首長を「氏上(うじのかみ)」といい、氏神の祭祀を司り、氏人(うじびと:氏上以外の氏の一般構成員)を統率した。

田荘〜私有地と私有民を保有した豪族

豪族は「田荘」という私有地を持ち、それを「部曲(かきべ)」と呼ばれる私有民に耕作させていた。
また、氏を構成する家々には奴(やっこ、奴婢:ぬひ)がいて、家内奴隷として使役された。

「臣」「連」が最上級の姓

氏姓制度〜豪族を身分制で統率

ヤマト王権は各地の豪族を服属させ、支配体制下に組み入れた。そして、政権内での家柄や地位を示す称号として「姓(かばね)」を与えた。
豪族たちを身分制で統率した政治制度を「氏姓制度」という。

「大臣」「大連」に任命された者が国政を牽引

姓には「臣(おみ)」「連(むらじ)」「君(きみ:公)」「直(あたい)」「造(みやつこ)」「首(おびと)」「史(ふひと)」などがあり、出自や職能などで、与えられる姓がそれぞれ異なる。
畿内に拠点を置く有力豪族には臣や連が与えられ、その中の有力者が大臣や大連として国政をけん引した。

「臣」は大王家に近い豪族に与える姓

「臣」は葛城氏や蘇我氏など、大王家に近い豪族に与えられた姓である。多くは畿内の支配地域を氏の名とし、ヤマト王権に参画した。
また、吉備氏や出雲氏などの有力地方豪族にも臣姓が与えられている。

「連」は軍事や祭祀を司った豪族に与える姓

「連」は大伴氏や物部氏など、軍事や祭祀といった特定の職能をもって奉仕していた豪族の姓である。
職掌に由来する氏を称し、時代と共に職掌外の任務も担うようになった。
『日本書紀』などの官撰史書では、連姓の多くは大王家とは祖先が異なる神別氏族(神々の子孫と伝えられている氏族)としている。

「君」は畿内や地方の有力豪族に与える姓

「君」は畿内や地方の有力豪族に与えられた姓で、関東の上毛野君や下毛野君、九州の筑紫君など、王権から比較的独立した豪族に与えられた。

「公」は継体以降の皇族の末裔に与える姓

「公」は継体天皇以降の皇族の末裔を称する豪族に与えられた姓で、息長氏や多治比氏などがある。
天平宝字3年(759)には「君」も「公」姓と表すようになった。

「直」「造」「首」

「直」は国造などの地方豪族に与えられた姓で、「費」「費直」とも記される。
「造」の姓は、品部(特定の職能をもって奉仕した人民の集団)を統率した氏族に多く与えられている。
そして「首」は、地方の部民の統率者、屯倉の管理者などに与えられた。

「別」「村主」「史」

他にも、姓は「別(わけ)」「村主(すぐり)」「史(ふひと)」などがある。
氏に対してどのような姓が与えられるかについては、先祖の出自や職能によって決められたと考えられている。

中央政府(王権)と地方統治

中央と地方、2つに大別された政治

ヤマト王権の政治は【中央における軍事・経済・徴税】と【地方の支配】に大別される。

中央の統治体制(職制)

大王
氏姓を与える立場のため、大王に氏姓はない
大臣
有力豪族である臣の中の有力者が就任し、最高執政官として政治を担う
大連
特定の職能を持つ連の中の有力者が就任し、最高執政官として政治を担う
伴造
中央の政務や祭務を担当

伴造〜「トモ」を統轄する中央の豪族

ヤマト政権を構成する豪族たちが大王に服属し、大王のために貢献する仕組みを部民制(べみん)と呼んでいる。
「部」は、やまと言葉で「トモ」と呼ばれ、王権に服属した豪族たちの中で王宮の警備や労役の提供、特定物品の貢納などの義務を負わされる集団のことであった。
元々は畿内やその周辺の中小豪族が王権の各種の職務を世襲的に分掌する組織を「トモ」と呼んだのが始まりであったが、のちにはこの制度が拡充され、米や食材の貢納や、渡来人の生産する玉類や武器などの手工業品の貢納義務を負うものなどにも「トモ」という言葉が使われるようになった。
そして「トモ」に漢語の「部」の字が当てはめられたのであった。
これら各地に分布する「トモ」を統括する中央の豪族を、「伴造」と呼んだ。
大伴氏や物部氏、中臣氏などは「伴造」として、自らの傘下にいる各地の「大伴部」や「物部」や「中臣部」等を統括していた。

大臣や大連を頂点とした中央

大臣と大連は王権を左右する実力者

中央の執政官を務めたのは「大臣(おおおみ)」や「大連(おおむらじ)」で、臣や連の中から有力者が選ばれた。
ヤマト王権の最高職ともいうべき地位で、ヤマト王権を左右する実力を有した。

大夫〜3番目の有力役職

大臣・大連に次ぐ有力豪族は「大夫(まえつきみ)」といい、こちらも臣や連から有力者が選ばれた。

基本的に合議制だったヤマト王権

大臣は葛城氏蘇我氏、大連は大伴氏物部氏、そして大夫は阿倍氏や和邇氏、紀氏、中臣氏などが務めた。
6〜7世紀のヤマト王権は、基本的には大王、大臣、大連、大夫による群臣会議で運営されていた。
有名な大臣には武内宿禰や平群真鳥、蘇我馬子、大連には大伴金村や物部尾輿などがいる。

伴造と伴〜王権の政務・祭祀を執る

ヤマト王権における政務や祭祀などのさまざまな職務は、「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれる氏族や、その配下である「伴(とも)」という氏人によって分掌された。
「伴」は友や供と同音で「大王に奉仕する」という意味があり、「造」には「集団の長」という意味があった。

渡来人たちの役職

品部〜高い能力を有した渡来人たちを編成

5世紀から6世紀にかけて、高い技術や知識を有していた渡来人が入ってくると、ヤマト王権は彼らを「品部(しなべ)」に編成させた。
そして、伴造の管轄下において物資を納めたり、朝廷に出資して労力を提供するなどした。

代表的な品部〜技術職が勢ぞろい

代表的な品部としては、馬飼部(馬の飼育)、錦織部(錦や綾を織る)、犬養部(番犬の飼育)、鍛冶部(武器などの金属の鋳造・鍛造)、陶作部(陶器の製作)、玉造部(勾玉など玉の製作)、忌部(祭祀に関する職務)、史部(文書や記録に関する職務)、土師部(土師器や埴輪の製作)、鞍作部(鞍など馬具の製作)、弓削部(弓の製作)などがある。
律令制でも一部が残り、身分は雑戸(ざっこ)より上で、良民と賎民の間だった。

【国造】を介した王権の地方統治

地方の統治体制(職制)

国造
地方の支配権が与えられ、地方統治を担う
県主
重要な地方の首長として、地方統治を行う
稲置
ヤマト王権の直轄地・屯倉や県の管理を行う
伴造
地方の政務や祭務を担当する

王権が各地の豪族を服属させる

ヤマト王権は各地の豪族を服属させることで力をつけ、支配体制も構築していった。
地方豪族の領域内の農民の一部を「名代・子代の部」という直轄民にし、長谷部・春日部・額田部など、設置されたときの王族や宮の名前がつけられた。

屯倉〜大王の直轄領を設置し税収を得る

また、大王家の直轄領である「屯倉(みやけ)」を設置し、大王家の財政の安定化をはかった。
最初は畿内に置かれたが、継体朝に九州で糟屋屯倉が置かれ、やがて全国に置かれるようになった。
「屯倉」は収穫物を納める倉庫から転じた言葉である。
代表的な屯倉としては、吉備国の白猪屯倉(しらい)、上総国の伊甚屯倉(いじみ)などがある。
時代によってその性格は変わったとされるが、詳しいことはわかっていない。

県と県主が【国造】へ〜地域の豪族が任じられる

初期のヤマト王権では、服属させた地方の地域共同体の中で重要な場所を「県(あがた)」とし、その首長を「県主(あがたぬし)」とした。
5世紀頃になると、これに代わる地方支配体制として「国造(くにのみやつこ)」が設けられた。
地方を統治していた優秀な豪族が順次任じられ、最終的には、国造の数は百数十に達したとされる。
9世紀に成立したとされる『先代旧事本紀』の中の「国造本紀」には、全国の国造の設置時期と任命された者が記載されている。

「県」の成立時期は不明(13代成務とされるが…)

「県」は「記紀」では第13代成務大王(天皇)の時代に成立したと記される。
『古事記』では「建内宿禰を大臣として、大国小国の国造を定め、国国の堺、大県小県の県主を定め」たとある。
成務大王の実在には大きな疑問符がつくため、この時期に県の制度が成立したとは考えられないが、その分布は大和・河内・吉備・筑紫に濃密にみられ、越前から尾張・美濃以西にまた がる。
県のなかでも「大和の六御県」と呼ばれる「高市県・葛木県・十市県・志貴県・山辺県・曽布県」は、朝廷の最も古い直轄地であったと考えられる。

中央の政治制度は地方隅々までは行き渡らず

ヤマト王権の支配領域は、前方後円墳の分布からすると、東北地方から九州南部までわたっていたようにみえるが、県や国、部などの制度が機能していたのはもっと狭い範囲だったと思われる。

「国造本紀」〜国造を列挙した平安時代の史書
「国造本紀」は『先代旧事本紀』の巻第10にあたる一巻の書。大倭国造(やまとくにのみやつこ)以下全国で130余りの国造を列挙し、それぞれに国造任命時代、初代国造名を簡単に記したもの。なかには和泉、摂津、丹後、美作など後世の国司をも記載しており、また无邪志(むさし)と胸刺(むさし)、加我(かが)と加(かが)など紛らわしい記述もある。参照するには注意が必要ではあるが、古代史研究の貴重な史料だ。本書の解説書『国造本紀考』(1861年:栗田寛著作)という書物もあり、「国造本紀」の来歴や偽書の指摘、国造各々の詳細な解説がなされている。

各地の有力豪族が地方統治を担う

権力を認められる代わり、王権に従属した豪族

国造は自らの統治権(軍事権・行政権・裁判権など)を認められる代わりに、ヤマト王権に対して子弟(舎人:とねり、靫負:ゆげい)や子女(采女:うねめ)を出仕させたり、地方特産物や馬、兵士などを貢上した。

従順な国造もいれば、反抗的な国造もいた

国造の中には屯倉や部民を管理する伴造を兼ねたり、国造軍を率いてヤマト王権の遠征に参加する者もいた。
一方で、ヤマト王権に対して反抗的な態度をとったり、解体される国造も存在した。

国造に代わり【郡司】【評督】が地方行政を担う

古墳時代を通して長らく存在した国造制だが、大化改新の前後から評(こおり:大化改新以降、大宝令施行までの地方行政組織)の長官である「評督(ひょうとく、こおりのかみ)」が置かれ、8世紀には郡が置かれて郡司が地方行政を担った。
郡司は4等級からなる四等官制で、大領・少領・主政・主帳からなる。

早い者勝ち的に王権の座についた大王家

古墳時代前期には、吉備や上毛野、筑紫など、ヤマト王権に勝るとも劣らない勢力の地方豪族が存在した。
しかし、国家体制が整えられるにしたがい、それらの豪族もヤマト王権の体制下に組み込まれていった。

ヤマト王権の出来事(時系列順)

最初期の大王(天皇)

実在視されない最初期の大王

初代神武天皇が日向から大和に至る東征伝承を語るが、これがヤマト王権の起源を語る史実であるとは考えられていない。初代から9代までの大王たちは、学術的には実在しなかったとされる。
ただし、2代綏靖〜9代開化の欠史八代について陵墓はしっかりと記述されており、その地域の豪族らが大王として記録された可能性などが指摘される。

  • 初代 神武大王
  • 2代 綏靖大王
  • 3代 安寧大王
  • 4代 懿徳大王
  • 5代 孝昭大王
  • 6代 孝安大王
  • 7代 孝霊大王
  • 8代 孝元大王
  • 9代 開化大王

実在視される最初期の大王

10代崇神が実際の初代大王ではないかという論説があるが、この時代の大王たちも神話性が強く、「記紀」の記述をそのままには受け取ることは出来ない。(13代成務と14代仲哀は実在性に疑問符が付く)
ヤマトタケルの東征(地方侵攻)などは部分的に史実性をうかがわせる。

  • 10代 崇神大王
  • 11代 垂仁大王
  • 12代 景行大王
  • 13代 成務大王
  • 14代 仲哀大王
実在性がある古代天皇

実在性がある古代天皇、初代〜9代の実在性は否定される

「空白の4世紀」の出来事

266年の女王・台与の遣使以降、歴史が消失

卑弥呼の後継者である台与が266年に魏に遣使して以降、中国の歴史書から倭国に関する記述が見られなくなる。

空白の4世紀〜西暦300年代の文献史料なし

この史料から欠落した時期が「空白の4世紀」であり、邪馬台国のその後やヤマト王権の成立過程、古墳の巨大化などが文献から情報が得られなくなっている。(この時期の中国は五胡十六国時代と呼ばれる混乱期で、倭国の歴史に注目する余裕がなかった)

日本側の史料は注意して参照すべし

なお、日本側には『古事記』と『日本書紀』という文献史料はもちろん在るのだが、編纂時期は西暦700年頃であり、300〜400年も経ってからの編纂である為、信憑性は非常に低い。ゆえに参照する場合は注意が求められる。

大陸側に【碑】による日本に関する文字記録が遺る

とはいえ、この時期に関する情報が全くないわけではない。
中国の吉林省にある好太王碑(広開土王碑)には、倭国の高句麗侵攻に関する記述がある。

倭国と百済が同盟、倭百で高句麗と戦っていた

当時の朝鮮半島は高句麗、新羅、百済による争いが激化しており、百済は倭国と同盟を結び、三国で最も強大な高句麗に対抗していた。
倭国軍も海を渡って朝鮮半島に進出し、高句麗と戦った。
また、石上神宮(奈良県天理市)に所蔵されている「七支刀」は372年に百済から贈られた鉄剣で、369年に倭国と百済が同盟を結んだことを伝えている。

古墳群の築造地域が移動

4世紀には古墳の築造地域が転々としている。
3世紀後半から4世紀前半にかけては、奈良盆地南東部の大和・柳本古墳群に西殿塚古墳(全長約230メートル)、渋谷向山古墳(全長約300メートル)などの巨大古墳が築かれていた。
しかし、4世紀後半から5世紀後半には、奈良盆地北部の佐紀、同盆地南部の馬見で巨大古墳が築かれた。さらに、4世紀末には巨大古墳の築造地が河内平野に移り、日本最大規模の大仙古墳などが築造されている。

王権が移動したか?もしくは別の理由か?

巨大古墳の築造地域が時期によって異なるのは、王権の移動によるものと考えられている。一方で、単に古墳の設営地が変わっただけという見解もある。

倭の五王〜5人の大王(倭王)の時代

この時代の大王(天皇)

倭の五王の時代の大王たち。21代雄略は実在がほぼ確実視され、その直前の大王らの実在性も高くなり、事績もリアリティを増す。ただし中国側の史料と日本側の史料と内容に食い違いもある。

  • 15代 応神大王
  • 16代 仁徳大王
  • 17代 履中大王
  • 18代 反正大王
  • 19代 允恭大王
  • 20代 安康大王
  • 21代 雄略大王

中国の歴史書に記された【5人の大王(倭王)】

「記紀(古事記と日本書紀)」から神々の話が消え、天皇(大王)を頂点とした中央集権体制の確立が描かれていく。
当然だが「記紀」のなかではヤマト王権の誕生も記されてはいる。が、その内容は相変わらず神がかり的な話が多く、真に受けることは出来ない。

倭の五王の系譜、日中比較

【倭の五王の系譜、日中比較】宋書において五王の全員は血縁関係にない。日本側ではこの時代の大王(天皇)は血縁関係(世襲)にある筈で、明確に矛盾している

記紀より古い中国の歴史書『宋書』

しかし、倭の五王が中国の歴史書『宋書』に登場する頃から、次第にヤマト王権が権力を強化する様子など史実と思われる様子がが描かれるようになる。
『宋書』は「記紀」に比べてこの時代のことをよりリアルタイムに近い時代に記しているため、「記紀」より『宋書』の方が信憑性が高い。

【倭の五王】から日本史は内容が正確に近付いていく

倭の五王こと【5人の大王(天皇)】であるが、正確にはこの5人が誰のことかは完全には定まってはいない。しかし、大筋の比定はできている。つまり、この【倭の五王の時代】を契機に日本史はより正確にその全貌がつかめるようになっていくわけだ。

「記紀」によれば倭国は新羅を平定したという

「記紀」は、神功皇后(息長帯比売)による新羅平定を経て、その子・誉田別王(ほむたわけのみこ)が応神大王(天皇)として即位したことを記す。
奈良時代の日本は新羅を属国と主張していたが、その根拠とされたのが神功皇后の新羅平定伝承であった。(神功皇后の存在は実在視されることは少ない)

応神と仁徳〜4世紀後半から5世紀初頭

「記紀」は、奈良時代につながる支配領域を統治したはじめての大王(天皇)として、応神を位置づけている。
その応神を継承したのが大鷦鷯王(おおさざきのみこ)、後の仁徳大王(天皇)である。
応神、仁徳が実在したとすれば、その年代は4世紀(300年代)後半から5世紀(400年代)初頭にあたる。

応神・仁徳の時代に王墓はさらに大型化する

宮内庁が仁徳陵に比定する大仙古墳、応神陵に比定する誉田御廟山古墳が前方後円墳として全国1位、2位の規模であるように、この頃を境に、歴代の大王(倭王)墓は急速に大型化していく。

五人の倭王【讃、珍、済、興、武】

中国、南朝の宋(劉宋ともいう)の歴史書、『宋書』には、西暦421年から478年の間のおよそ半世紀間に、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という5人の倭王が、宋に使者を派遣してきたことが記されている。

21代・雄略天皇〜最期の倭王「武」は実在確実

武による478年の上表文はよく知られる。
そこで武は、父祖以来、列島を制圧して支配し、さらに朝鮮半島の一部(海北九十五国)をも支配下に収めてきたことを誇っている。
武が大泊瀬幼武王(おおはつせわかたける)、つまり雄略天皇にあたることは確実視されている。

雄略(ワカタケル大王)が熊本から埼玉まで支配

雄略の名は、埼玉県稲荷山古墳と熊本県江田船山古墳(西暦470年前後)という関東九州の古墳から出土した刀剣にも、ワカタケル大王として記される。(この当時、王権の版図が北関東と九州中部に及んでいたことを示している)
これらのことから、4世紀後半から5世紀にかけて、大王の権力は広く列島を覆い、専制化したとの見方が有力である。

雄略によって大王権力が専制化した〜記紀より

「記紀」は、雄略が葛城、吉備などの有力勢力を弾圧し、兄・安康大王(天皇)を暗殺した眉輪王(仁徳の孫)、皇位をめぐって争っていた市辺押磐王(履中大王の子)ら、王族たちを次々に殺害したことを記す。
これらのこともまた、5世紀に大王の権力が専制化したことを示している。

『宋書』によれば大王の専制化はまだ遠く

ただし『宋書』を見ると、必ずしも大王が他豪族らを圧倒していた訳でもなかった事が窺える。
『宋書』には、皇帝が倭王に授けた官爵が記されるが、珍の時にみえる侑など大王以外にも官爵を授けられた王族とみられる人物があり、そのランクに大きな差はない。

五王は完全な血縁関係になく、複数の王統が分立か

さらに『宋書』は、倭の五王の血縁関係について、讃と珍は兄弟、済と興、武は親子とするが、珍と済の間柄については何も記さない。
このことを重視して、5世紀の大王は一つの王統が占めていたのではなく、複数の王統が分立する状況にあったとする見解がある。

雄略の王族殺害は非・血縁者を狙ったものか

倭の五王と「記紀」にみえる大王(天皇)の関係について、武が雄略であることを起点として考えるならば、済・興はそれぞれ允恭・安康、讃・珍は応神・仁徳など諸説あるが、讃・珍は履中・反正にあたる可能性が高い。
つまり雄略ら允恭系の王統と、履中ら仁徳系の王統の間には、血縁関係がなかったと考えられる。
「記紀」が記す雄略による王族殺害の伝承も、すべて仁徳系の王族を対象としたものである。

雄略の後、大王権力は強化されるも、王統は分裂する

4世紀後半以降、5世紀の大王は、その権力を強化していくものの、複数の王統に分立して対立をくり返しており、専制的な権力を確立させるには至っていなかった可能性が高い。
そのことを示すかのように、雄略の逝去後、その後を継いだ子の清寧大王には後継者がおらず、允恭系の王統は男系では断絶するのである。

倭の五王以降の皇統も謎だらけ

22〜25代大王に関する記紀の記述は疑わしい

倭の五王以降、皇統の分断を繰り返し、22〜24代と短命の大王が続き(王権の弱体化が指摘される)、25代武烈でそれまでの皇統が断絶(した可能性)。また、22代は謎が多く不明瞭、23〜24代は不実在説が強く、25代は悪行の加筆が疑われる

  • 22代 清寧大王
  • 23代 顯宗大王
  • 24代 仁賢大王
  • 25代 武烈大王

幻の女性天皇「22.5代飯豊天皇」

記紀」には、5世紀後半、清寧大王が逝去して允恭系の王統が絶えた後、雄略大王に殺害された市辺押磐王(イチノヘノオシハ)の王女・忍海郎女(オシヌミノイラツメ:飯豊青皇女、飯豊天皇の異名もある)が統治を行い、その下で市辺押磐王の遺児・弘計王(ヲケ:顕宗)、億計王(オケ:仁賢)が潜伏先の播磨で見出されて即位したことが記される。(23代顕宗大王、24代仁賢大王)。
忍海郎女の統治は、事実上、彼女が大王の地位についたことを示しており、同時にこれは仁徳系王統の復活であった。

25代武烈〜神武から続く皇統が断絶

武烈大王が子を残さず崩御、男系断絶

しかし、仁徳系の統治も長くは続かない。仁賢の後は子の25代武烈大王が即位するが、後継者に恵まれないままに逝去する。
允恭系に続いて、仁徳系の王統もまた、男系としては断絶してしまうのである。この状態を、『古事記』は「日嗣知らすべき王無かりき」、皇位を継ぐ大王がいなくなってしまった、と記す。

悪逆非道で知られるも、捏造説あり

武烈の父・仁賢大王は非実在説がある。『日本書紀』によれば、「しきりに諸悪をなしても善を修めなかった」という、残虐な天皇だったとされる。たとえば妊婦の腹を割いて胎児を見た、人の生爪を剥いで芋を掘らせた、などの悪事が伝わる。歴代でこれほどの暴君ぶりが強調されている天皇はいない。ただし古事記には「皇后も御子もなく没した」とあるのみで、こうした悪行はいっさい記されていない。武烈天皇の崩御で仁徳天皇の王統は断絶し、次に継体天皇が立つことになるが、書記の一連の記述は、続く継体王統を正当化するための捏造とする見方も強い。

26代・継体大王が遠方より迎えられる

26代継体から新たな皇統が始まり、その系譜が以降はずっと続く。欽明の時代に仏教が公伝し、仏教勢力が大王の力を脅かす

  • 26代 継体大王
  • 27代 安閑大王
  • 28代 宣化大王
  • 29代 欽明大王
  • 30代 敏達大王
  • 31代 用明大王
  • 32代 崇峻大王

断絶した王統を【応神5世孫・継体】が継ぐ

武烈崩御による皇統断絶の危機的状態を打破したのが、男大迹王(オオド:継体大王)であった。継体の父は近江(日本書紀では越前国)、母は越前坂井の出身だ。継体は即位にあたり、仁賢の皇女で武烈の妹であった手白髪皇女を娶ったとされる。前の王統の皇女のいわば入り婿となって王位を継承したのだった。

自称・応神の5世子孫、系譜は偽証された可能性あり

継体は応神大王5世の子孫を自称したとされるが、その原形となった系譜に応神(誉田別王)の名は記されない。
代わりにみえるのは、凡牟都和希王(ホムツワケ)の名である(「上宮記」一云)。
ホムツワケはホムチワケともいい、垂仁大王の子とされるが、もちろん応神とは別の人物である。継体と応神を結びつける系譜は、ホムツワケの系譜を利用して造作されたものと考えられる。

応神子孫でなくも、王族ではあった継体(ただし傍流)

癸未年(503)の年紀をもつ和歌山県・隅田八幡神社の人物画像鏡銘文には、継体と考えられる男弟王の名が記されているので(諸説あり)、継体が王族であったことは事実であろう。
しかしその出自は事実上の地域勢力であり、王族としては傍流的な存在だった。

広い人脈で王権中枢に入り込んだ継体

そのような人物が大王の地位につくことができた理由のひとつには、母の拠点・越前の坂井郡が、北陸地方と近畿地方を結ぶ要衝であるなどの利点があったからだと推測される。
また『古事記』に8人、『日本書紀』に9人と記される多くの后妃をもつことで、その出自の勢力と連合関係を結ぶことができたことも大きく影響しただろう。

尾張の姫との子を相次いで大王に即位させた

とりわけ尾張出自の目子媛(めのこひめ)との婚姻が注目される。
彼女が生んだ勾大兄王(まがりのおおえ:安閑大王)、檜隈高田王(ひのくまのたかだ:宣化大王)は、地方豪族出身の后妃の子としては異例なことに、相次いで大王の地位についている。
継体が王宮を置いた淀川水系に沿って、東海地方の影響が強い副葬品をもつ古墳が集中することも、尾張との関係が強固なものであったことを物語る。

即位前から有力者であった継体

隅田八幡神社の人物画像鏡は即位前の継体に百済の武寧王(ぶないおう)が贈ったものであることが銘文に記される。(諸説あり)
このことは、継体の実力が即位する前から東アジア世界の中で知られる存在であったことを示している。

磐井の乱〜九州の反乱を継体が鎮圧

従来にない権力を手に入れた継体は、当時揺らいでいた朝鮮半島における倭国の権益を取り戻すべく、加耶(かや)に派兵する。しかしそれは思いもかけないところから手痛い反撃を被ることになった。
527年、北部九州の筑前を拠点とする筑紫君磐井が動員を拒否し、継体の派遣した近江毛野の軍を妨害して軍事行動を起こしたのである。(磐井の乱)
磐井の行動は新羅とも結んだ大規模なものであった可能性があるが、継体は鎮圧に成功する。
これを機に、地域勢力を服属させて地域支配に動員する国造制や、王権の支配拠点である屯倉を設定するなど、大王の支配は列島の広域に浸透することになる。

27代安閑〜直轄領・屯倉の拡大に尽力

継体の第一子。書紀によれば、継体崩御の当日、継体から位を譲られ即位した。在位はわずか2年(4年)だが、屯倉(直轄領)の拡大に尽力。筑紫の穂波屯倉、鎌屯倉、豊国の三崎屯倉、桑原屯倉、播磨国の越部屯倉など、44か所の屯倉を設置した。地方豪族が支配していた土地も多く、ヤマト王権の経済的・政治的基盤を整えた。在位中、武蔵国の笠原直使主と同族の小杵が武蔵国造の地位を争った。小杵は関東の実力者・上毛野君小熊へすりよったが、使主は大和へ上り現状を報告。ヤマト王権は使主を国造と認めて小杵を誅し、関東での上毛野君の権勢・影響力を削いだ。

28代宣化〜初めて蘇我氏を大臣に起用した

継体の第二子。安閑に子がなかったため、即位が実現。蘇我稲目を大臣に起用し、政権の中枢に据えた。宣化天皇元年5月には、「食は天下の本である。黄金が万貫あっても飢えを癒すことはできない。真珠が千箱あっても寒さを防ぐことはできない」で始まる詔勅を出し、凶作に備えた。自ら阿蘇君に命じて河内茨田郡の稲を貯蔵させ、蘇我稲目、物部麁鹿火、阿倍臣にも同様の処置をとらせた。さらに、那津口(博多大津)に非常用の官家(屯倉)を設置し、九州の籾を集めさせた。外交・軍事面では大伴金村大連の子・狭手彦を任那に送り、新羅に備えさせた。

29代欽明大王が内乱を起こしたという説もあり

『日本書紀』の一説には、継体が安閑、宣化と思われる太子と皇子と共に逝去したとする百済側の史料(「百済本記」)が引用されている。
こうした記事によって、継体治世の末年に、安閑および宣化と異母弟の26代欽明大王との間に内戦(辛亥の変)が生じたとする説がある。
しかしこの三者は緊密な婚姻関係で結ばれており、対立は想定できない。継体が樹立した専制王権は、安閑、宣化を経て欽明に継承されたのである。

29代欽明、専制支配は進むが、朝鮮権益を失う

29代欽明大王の治世では、大王による専制的な支配体制は格段の飛躍を遂げた。 しかし海外では、倭国が朝鮮半島に有していた権益はしだいに失われつつあった。 新羅の興隆とそれに対抗する百済による侵攻のため、倭国と親密な関係にあった加耶はその勢いを失い、562年についに滅亡する。

仏教公伝〜王が仏にすがる時代へ

百済より日本に仏教が伝わる

こうした状況のなか、ヤマト王権を、王権から朝廷へと変える切っ掛けの一つのなる仏教がもたらされる。
仏教が百済から公式にもたらされた年代について、『日本書紀』は552年、『元興寺縁起」など寺院に伝わる記録には538年とするものもあり、一致しない。
ただ公伝にこだわらなければ、継体大王の時には渡来人の中に草堂に仏像を安置して礼拝するものがあったとする史料があり(『扶桑略記』所引「延暦寺僧禪岑記」)、554年には百済から五経博士と共に倭国に滞在する僧の交代要員が派遣されるなど、仏教は6世紀を通じて倭国の中に浸透していた。

王権から朝廷へ

やがて蘇我氏らにより仏教は日本全国へ普及、聖徳太子らにより仏教をもちいた統治も始まる。
倭国は正式に「日本」の国号を名乗り、天武天皇により大王は「天皇」となる。
中央政府を【ヤマト王権】と呼べる時代は終わり、新たな時代を迎える。

「王権」を「朝廷」へ変えた天皇たち

推古大王により飛鳥に遷都されるが、この時代より王権から朝廷と呼べる水準にまで国家の仕組みが整えられる。天智により大和のほか地域(近江)に宮が遷され、天武により大王から天皇へ称号が変えられる。

  • 33代 推古大王
  • 34代 舒明大王
  • 35代 皇極大王
  • 36代 孝徳大王
  • 37代 斉明大王
  • 38代 天智大王
  • 39代 弘文大王
  • 40代 天武天皇

出典・参考資料(文献)

  • 『日本の古代豪族 発掘・研究最前線』宝島社 監修:瀧音能之
  • 『別冊宝島2128 完全保存版 天皇125代』宝島社
  • 『古墳で読み解く日本の古代史』宝島社 監修:瀧音能之
  • 『歴史道Vol.27 「古事記」「日本書紀」と古代天皇の秘史』朝日新聞出版 監修:古市晃
  • 『山川 詳説日本史図録』山川出版社 編者:詳説日本史図録編集委員会

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