磐井の乱

磐井の乱

古代日本最大の内乱

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体天皇21年)に九州・筑紫の磐井が九州北部で起した反乱。
朝鮮半島南部へ出兵しようとしていた近江毛野率いるヤマト軍の進軍を磐井が阻み、乱が勃発。
翌年528年11月、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧された。

『日本書紀』卷17 継体22年11月条の「磐井鎮圧」記事

『日本書紀』卷17 継体22年11月条の「磐井鎮圧」記事

北陸の継体天皇が即位

ヤマトは政権存続を巡る混乱期

ヤマト朝廷では第21代雄略天皇の後、四代の天皇が短命となってしまい、さらに第25代武烈天皇は子を遺す事なく崩御してしまった。
そのため、北陸地方の越前国より第26代継体天皇を迎え即位する事となった。

継体天皇vs新羅&磐井

ヤマトの朝鮮出兵計画

この頃、ヤマト政権は朝鮮半島の伽耶での利権を守る為に百済・新羅と戦う必要があり、朝鮮半島への出兵計画を立てていたという。
しかし、これに反発した磐井が反乱を起す事になる。

新羅が磐井に協力要請

527年6月3日、ヤマト政権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた朝鮮半島南部の南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。
この計画を知った新羅は、筑紫の有力者であった磐井へ贈賄を渡し、ヤマト軍の妨害を要請する。

磐井の乱 勃発

磐井がヤマトへ攻撃を仕掛ける

新羅の要請を受けた磐井はそれに応じて、ヤマトに対し反旗を翻す。
磐井は挙兵し、筑紫を中心に火の国(肥前・肥後)と豊の国(豊前・豊後)を制圧、勢力下に置いた。
さらに磐井は朝鮮半島南部の任那に向かっていた朝廷軍を妨害し、朝鮮(高麗・新羅・百済・任那)からの朝貢船を誘導してヤマトへの貢物を強奪した。

物部麁鹿火が将軍に任命

磐井の反乱を受けて継体も磐井征伐を決意する。
このとき継体は大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問し、物部麁鹿火が推挙された。
そして527年8月1日、物部麁鹿火を将軍とする征討軍が九州に送り込まれる。

九州北部で激突、磐井が討たれる

528年(継体天皇22年)11月11日、麁鹿火は筑紫の三井郡で磐井軍と激突。
接戦を繰り広げた後、麁鹿火が磐井を斬り、反乱を鎮圧した。

磐井の子はヤマトに許された

同年12月、磐井の子・葛子(くずこ)は、糟屋屯倉(かすやのみやけ:朝廷の直轄地)を献上する事で死罪を免れた。

ヤマトが新羅と領土交渉、失敗する

翌年の529年(継体天皇23年)3月、ヤマト政権は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣、新羅と領土交渉を行った。
しかし毛野の交渉は失敗、530年(継体天皇24年)に毛野は帰国途中の対馬国で没してしまった。

「磐井の乱」に関する歴史は疑わしい

磐井の反乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られているが、『筑後国風土記』『古事記』『国造本紀』にも簡潔な記録が残っている。
しかし、そこには「官軍から襲撃してきた」(筑後国風土記)とか「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」(古事記)などと書かれている。
つまり、磐井とヤマトの対立そのものは在ったとしても、『日本書紀』以外の史書には「磐井の“反乱”」を思わせる記述が無いのだ。
磐井の乱に関して『日本書紀』の記述は疑問視される。

朝鮮側には磐井の乱に関する記録なし

「三国史記」「三国遺事」といった朝鮮半島側の歴史史料には、磐井の乱に関する記録は存在しない
新羅が磐井に賄賂を送ったとする客観的な証拠も見当たらず、やはり日本書紀に記された歴史は疑わしい。

磐井について

古事記では磐井ではなく「石井」

古事記では「竺紫君石井(ちくしのきみいわい)」とある。
※日本書紀では「磐井」、筑後国風土記でも「筑紫君磐井」と表記
「竺紫君石井が天皇の命に従わず無礼が多くあった。そこで物部荒甲之大連と大伴金村連の二人を遣して石井を殺した」といった主旨の記述があり、日本書紀とはかなりの違いがある。
また、日本書紀では磐井の官職を「筑紫国造」としているが、これも磐井が「ヤマトへ反乱を起こした」と主張する為のミスリードを疑われる。

磐井の勢力範囲

磐井は八女地域(福岡県の南部)を地盤とする豪族だったが、その勢力範囲は筑紫から豊国、火国(肥国)にまで及んでいた。
熊曽(現在の宮崎県と鹿児島県)以外、九州北部のほぼ全域を掌握していた。

磐井からすれば反乱ではなかった

ヤマトから見ると“逆賊”磐井ではあったが、半島南部と交易するヤマト政権に対して、磐井は独自に高句麗や新羅といった北部諸国と結びついていた様子がある。
当時はまだ日本という国が一つにまとまっておらず、磐井からすれば自分達にも朝鮮半島と独自に交易を保つ権利があった。
磐井から見ればヤマトへの敵意は在っても、反乱のつもりなどは毛頭なかっただろう。

筑紫王国と言える程の巨大な勢力

敗れた磐井は、北部九州最大の前方後円墳(全長135メートル)岩戸山古墳に葬られた伝わるが、その近くには磐井の祖父世代の王墓とされる石一山古墳なども点在する。
岩戸山古墳は、当時の大王墓にも匹敵する規模で、出土した石製品群は北部九州の中でも他古墳を圧倒する数だ。
これは磐井の勢力の広さを物語っており、彼は一代の成り上がりではなく、古墳時代の北九州に覇を唱えた「筑紫王国」「北九州王朝」の王だったともいえる。


↑ページTOPへ