日本で最大の氏族、天皇家。『日本書紀』で紀元前660年に初代神武天皇が即位したと記される。
学術的に実在した可能性があるのは10代崇神天皇からで、15代応神天皇や26代継体天皇を初代とする説もある。
最初は天皇の称号ではなく、元々は「大王」という称号であり、40代天武天皇の頃から天皇の称号が使われるようになった。
『日本書紀』には、紀元前660年に初代神武天皇が即位したと記されているが、これはあくまで伝承の話である。
学術的に、実在した可能性があるとみられる最初の天皇は10代崇神天皇で、15代応神天皇や20代継体天皇を初代天皇とする説もある。
「天皇」は、古代中国において最高神とされた北極星を指す言葉である。
「スメラミコト」とも呼び、歴代君主の名称として用いられてきた。
しかし、最初から天皇の称号が使われていたわけではなく、元々は「大王」という称号だった。
この「大王」という表記は埼玉古墳群の稲荷山古墳(埼玉県行田市)で出土した「金錯銘鉄剣」に刻まれており、西暦471年or531年には「大王」という称号が存在していた事を示す。
大王の正式名称は「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」といい、王の中の王、すなわち連合政権の君主を意味する。
これに対し、天皇とは大宝令に「明神御宇日本天皇」と記されている。これは天の下をあまねく統治する神を意味し、大王が神的な存在に昇華したことを示している。
天皇の称号は40代天武天皇の頃から使われ始め、現在に至っている。
崇神天皇は四道に将軍を派遣して全国統一を進め、ヤマト王権の礎を築いた大王といわれる。
考古学的にも、大王のシンボルとされる前方後円墳が全国に広がっているので、ヤマト王権の勢力が拡大していったことがうかがえる。
初期ヤマト王権は地方勢力と緩やかに結びついた連合政権だったが、これを大王専制の中央集権国家に変えたのが、21代雄略天皇である。(『日本書紀』による)
吉備や毛野、日向などの地方勢力を臣従させ、ヤマト王権の勢力をさらに拡げた。
皇位継承を争うライバルたちを次々と殺害し、5世紀最大の豪族だった葛城氏も没落させた。
一方で、平群氏や大伴氏、物部氏などを新たに抜擢し、宮廷組織の整備を進めた。
さらに、大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人を重用し、政権の強化をはかった。
ヤマト王権のシンボルでもあった巨大な前方後円墳は、雄略天皇の頃から築かれなくなった。
これはヤマト王権の全国統一事業が進み、古墳の規模で力を示す必要がなくなったからとみられる。
その後、25代武烈天皇の代で後継者がいなくなったが、応神天皇の5世孫である男大迹王が26代継体天皇として即位した。
これ以降、皇統は途絶えることなく現在に至ったとされる。
豪族の中には、大王(天皇)家をルーツとする皇別氏族がある。
古くは息長氏や葛城氏、蘇我氏などがあり、大王家をしのぐ勢力を張る豪族もいた。
律令制下では皇族を皇親といい、天皇の5世孫までがその範囲とされた。
養老令では、5世は「王」と称することが許されたが、皇親には当たらなかった。
6世孫は王号が許されなかったが、なかには勝手に名乗る者もいた。
皇親がその身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りることを「臣籍降下」という。
奈良時代に活躍した橘諸兄は30代敏達天皇の末裔で、元々は葛城王という名だった。しかし、天平8年(736)に母の橘姓を継ぎ、橘諸兄と名乗っている。
また、歴代天皇の漢風諡号を定めた淡海三船も御船王という皇族だったが、淡海姓を与えられて臣籍降下している。
臣籍降下で生まれた後裔氏族には清原氏や文室氏、大原氏などがある。
清原氏は100人以上の皇族に与えられた姓で、『日本書紀』を編纂した舎人親王の後胤が多い。
『令義解』『日本後紀』などの編纂に携わった清原夏野は、舎人親王の曾孫にあたる。
文室氏は天武天皇の皇子である長皇子の後裔氏族で、天平勝宝4年(752)に智努王(文室浄三)と大市王(文室大市)が臣籍降下している。
平安時代には、臣籍降下する皇族に源氏、平氏の姓が与えられた。
源氏は52代嵯峨天皇の子孫である嵯峨源氏、56代清和天皇からの清和源氏、59代宇多天皇からの宇多源氏など、全部で21の系統がある。
平氏は50代桓武天皇から出た桓武平氏が有名で、平安時代末期に栄華を極めた平家一門も、そもそもは桓武平氏である。
平安時代の臣籍降下は、朝廷歳費を節約するのが目的だったともいわれる。
天皇の皇子が降下することも多く、彼らは官位の面で優遇された。
しかし、一部の家系以外はその地位を子孫に伝えるのは難しく、徐々に下級貴族化していった。
また、一部は受領として地方に赴任し、土着して武士化する者もいた。