第15代 応神天皇

第15代 応神天皇

大陸と接近し、多様な文化を取り入れた

仲哀天皇の第四皇子で、母は神功皇后だ。
神話的要素を含む天皇ではあるが、井上光貞氏など、多くの歴史学者より「確実に実在が確かめられる最初の天皇」とされている。
※もちろん、異論もある。
歴史教科書でも、最初に取り上げられる天皇とされる事が多い(次代の仁徳天皇の例もある)。
中国の歴史書である「宋書」に伝わる倭の五王「讃」の候補の一人でもあり、仁徳天皇と同一人物との説もある。
応神即位の実年代は、5世紀初頭前後とみられる(記録上は3〜4世紀初頭の人物とされ、110歳で亡くなっている)。

筑紫の宇瀰で誕生

身重(子を身ごもっている)で三韓征伐へ出陣していた神功により、筑紫の宇瀰(うみ:福岡県宇美町)で生まれたという。
なお、日本書記では仲哀天皇の死後、神功皇后を天皇と同格に扱い、応神が即位するまでの69年間(神功が執政した時期)を「神功皇后摂政紀」としている。

異母兄の反乱を鎮圧

神功が大和に幼い応神を伴って帰還した際、仲哀天皇の子で、応神天皇の異母兄(母は大中姫命(おおなかつひめのみこと))にあたる「かご坂皇子」と「忍熊皇子(おしくまの)」が反乱を起こした。
神功と武内宿禰(たけうちのすくね)は、この反乱を鎮圧しているが、近年はかご坂・忍熊が正当な後継者だったとする見方もある。

応神天皇即位

これにより応神天皇は神功4年に立太子する。
なお即位は71歳であった。。
即位の後は内政・外交に力を注いだ。

海部と山部

大和政権に服属する官人・人民の集団は、「部(べ)」という呼称があるが、新たに海辺で働く部民を「海部」、山で働く部民を「山部」とする制度を置いた。
これには、農民以外の漁民や、山の民も支配下に置くという意味合いがあり、大和政権が支配勢力を拡大した事を指す。

応神は朝鮮半島に出兵していた?

また、5世紀初頭前後の時代は、日本の軍が盛んに朝鮮半島へ侵入したという記録がある。
この指揮を執ったのが、実は応神天皇だった可能性が大きいとされる。

渡来系の氏族より、多くの先進文化を取りれた

大陸との接近を映して新羅、百済との交流も活発化した。
応神は渡来系の氏族を積極的に受け入れ、文化・技術を取り入れた。
有名な秦氏(はたうじ(島津氏、長宗我部氏の祖とされる))、漢氏(あやうじ(坂上田村麻呂の祖))の渡来もこの時代である。
こうした移民により土木、養蚕、機織といった技術が全国的に普及する事になる。
また、古事記に百済王よりつがいの良馬2頭の献上があった事が記されているが、これが日本の馬の歴史の始まりと考えられる。

大隅宮に遷都

応神は当初、大和の軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや:奈良県橿原市大軽町)に都を置いたが、後に難波の大隅宮(おおすみのみや)、現在の大阪市東淀川区に遷都した。 その後、111歳で崩御したという。

応神天皇陵

大阪府羽曳野市誉田にある前方後円墳の応神天皇陵は全長約420m。
仁徳天皇陵に次ぐ日本第二の規模で、その威勢を物語るものだ。

宇美八幡宮

応神天皇誕生の地である福岡県糟屋郡宇美町の「宇美八幡宮」では、応神天皇とその母である神功皇后を祀っている。


↑ページTOPへ