源頼朝

優れた政治力で、武家政権を確立 源頼朝

源頼朝

鎌倉幕府の祖 源頼朝

源頼朝(1147〜1199)は初めて東国の地、鎌倉に幕府という本格的に武士政権を開いた将軍の祖である。
平清盛と平治の乱で対立した源義朝を父に持つ。
頼朝が武家の棟梁として大成出来た理由として、大局を見誤らずに朝廷との安定した関係を維持しながら、配下の者への配慮も忘れない優れた政治力を発揮できたことにある。
反平家・平清盛討伐に頼朝が踏み切ったとき、彼は東国を拠点に武士との主従関係を固めながら、天皇が治める朝廷に対して自身の宣伝工作も欠かさなかった。
1183年には後白河法皇(ごしらかわほうおう)により東国・坂東における支配権を公認する宣旨を得ることが出来たのである。
これにより、頼朝の勢力は朝廷の正規軍・官軍として認められたに等しい。

異母弟、義経への非常の決断

平家討伐後、弟である源九朗義経(みなもとのくろうよしつね)との関係悪化が顕著になってくると、後白河法皇は義経に対し頼朝追討の院宣を出してしまう(兄に反感を持った義経が朝廷に求めたとも云われる)。
これに対し頼朝は軍を上洛させて(戦力を京都へ入れる)から、朝廷に対し強硬策を用いて関係修繕を図った。後白河法皇はこれに対し慌てて方針を翻してしまい、逆に義経の追討の院宣を出してしまう。
さらに頼朝はこの時、守護・地頭の任命権を法皇から承認されてたのである。これにより頼朝は強大な権力を得ることが出来た。

後白河法皇との駆け引き

しかし後白河法皇は頼朝が武家の頂点に立つことをよくは思っていなかった。
そこで頼朝は当時の関白・九条兼実(くじょうかねざね)に接触し関係を深めていった。
そして、後白河法皇没後の1192年、兼実の後ろ盾により征夷大将軍に任じられた。これにより名実ともに武家の頂点に登り詰めたのである。

御恩と奉公で結ばれた主従関係

鎌倉幕府の基盤となったのは全国の御家人と云われる武士たちである。
御家人になるには名簿(みょうぶ)と云われるものに自分の名前を記し、それを将軍に謁見(えっけん)しなければならなかった。
これにより御家人と非御家人との明確な区分が可能となったのだ。
東国を中心とした御家人たちの頼朝への信頼は厚かったが、それだけではなく、彼らには「御恩(ごおん)」と「奉公(ほうこう)」という関係で主従関係が確立されていた。
幕府は御家人に対し「御恩」として、先祖伝来の所領・領地を安堵する。
御家人は幕府に対し「奉公」として、戦時には合戦に参加する。
といった、互いに相互関係に協力しあっていたのである。
※ちなみに源義経も独自に「家人(けにん)」と云われる主従関係を持つ者たちがいたが、これは「御恩」と「奉公」は無く、ただ信頼関係のみからなる主従関係である。義経は平泉で自害する際にもたくさんの家人が居た。ここから義経という人物の偉大さが伺える。
中世の武士たちによって、土地は命がけで守るものであった。
その武士たちの思いを頼朝はよく理解していたからこそ、土地を媒介として封建制度を成立させることが出来たのである。

英雄の最後

源頼朝の死因はよく分かっていない。鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」には頼朝の死に関する記述は記されておらず、一般的には「落馬」と伝承されているのみである。
鎌倉幕府における重要な立場にあった頼朝だけに、非常に疑問が残る出来事である。

頼朝の年表

西暦 出来事
1159年 源義朝・頼朝親子が平治の乱で敗北
1160年 頼朝、伊豆に配流となる
1180年 以仁王の令旨にこたえ、伊豆で挙兵
石橋山野戦いで敗れる
鎌倉に入る
富士川の戦いに勝利する
1183年 源義仲、倶利伽羅峠の戦いに勝利
義仲、都に入り、平家は都落ち
後白河法皇、頼朝に義仲討伐の宣旨を出す
1184年 源義経と範義、義仲を討伐
法皇、頼朝に平家追討を要請
一の谷の戦いで義経が勝利、平家は讃岐の屋島に敗走
1185年 屋島の戦いで義経勝利、平家は九州に敗走
壇ノ浦の戦いで平家滅亡
法皇、義経に頼朝追討の院宣を発給
法皇、頼朝に守護・地頭の設置許可を与える
1189年 藤原泰衡、義経を自害に追い込む
頼朝、泰衡を攻め滅ぼし奥州平定
1190年 頼朝、権大納言・右近衛大将に任命されるが辞任
1192年 法皇、崩御
頼朝、征夷大将軍となる
1199年 頼朝、落馬により死亡


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