1199年に源頼朝は急逝した。
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には頼朝の死因は落馬による体調悪化とあるが、その前後の9年間の記述が抜け落ちており、意図的に隠された可能性がある。
北条氏による暗殺・クーデター・乗っ取り説なども囁かれる頼朝の死に付いてまとめる。
建久10(1199)年1月13日、頼朝は娘の大姫の死去からわずか2年後に、急逝した。
その突然の死は、「落馬」によってもたらされたとされるが、それ以外に詳細な記述がないため大きな謎に包まれている。
鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には、頼朝の最晩年の記録がほとんどといって残されていないのだ。
建久7(1196)年から9年間の事績がまるまる抜け落ちており、頼朝の死の前後の記事もあまりにも簡略化されているのだ。
死の前年末、頼朝は相模川での仏事からの帰路、不意に落馬し、その後に体調を崩したとされる。
おそらく脳梗塞や脳溢血のような病気だったと思われる。
死の前後に関する記録が簡略化されていることから、後年、頼朝の暗殺を疑う説も唱えられた。
『吾妻鏡』が鎌倉時代の末期に北条氏によって編纂されたとする鎌倉幕府の正史であるが、『吾妻鏡』は政治的に偏った史書である為、頼朝の死に関しても意図的に何かを隠した可能性は否めない。
頼朝暗殺説の根拠のひとつに、建久4(1193)年5月に催された富士の大巻狩りと、その裏で進行した『曽我物語』でも有名な曾我兄弟の仇討ち事件があった。
富士の裾野で行われた大巻狩りでは、頼朝の嫡男・頼家が鹿を射止めている。
巻狩りにおける獲物は神からの贈物と考えられ、いわば頼家は将軍家の正統な後継者であることを、神から認められたことを意味する。
こうして巻狩りはそのまま、頼家が祝福されたことを祝う祭りに転じた。
ところが、その祭りが催される最中の同月28日の夜になって、頼朝の側近の工藤祐経が、曾我十郎祐成と五郎時致の曾我兄弟によって殺されるという事件が起こった。
祐経曾我兄弟の父親の仇だったとされる。
この仇討ちは、祐経を殺すだけでは止まらず、曾我兄弟はその暴れ回り、多くの死傷者が出たとされ、頼朝が逗留した宿所は混乱に包まれた。
このとき、頼朝が暗殺されだという誤報が鎌倉にまで広わったとされる。
この報を受けて、頼朝の弟で、平家討伐の総大将を務めた源範頼は、北条政子のもとを訪れ「兄上にもしもの事があっても、この範頼がおりますから、御心配は要りません」と慰めたという。
しかし、頼朝が鎌倉に帰還した後に「自分になり代わり将軍になろうとした」ということで修善寺に流され、その後、暗殺されたとされる。
この事件で、五郎時致は頼朝を目掛けて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったという。
つまり、頼朝に対しても殺意を持っていたという事だが、もし仮に曾我兄弟が本当に頼朝暗殺を画策しており、それに範頼も加担していたとすれば、その黒幕とは一体誰なのか。
曾我兄弟のうち、弟の時致は、北条時政から「時」の字を貰っている。
つまり、時政は烏帽子親だったわけだ。
この仇討ち事件の混乱は、曾我兄弟と深い関係にある北条時政が密かに画したクーデターだったのではないかとする説もある。
『吾妻鏡』では、頼朝の晩年に向かうほど、時政の政治的な動きが少なくなっている。
頼朝に敬遠されていた可能性も高いということだ。
このままではまずいと、実権を握るためにクーデターを起こしたとも考えられる。
つまり、曾我兄弟を使った時政のクーデターは、頼朝に代わり範頼を軍に据え、時政が実権を握るというものではないかということだ。
また、範頼が幽閉された修善寺は、北条氏の支配下にある地だ。
そこで範頼が暗殺されたとすれば、時政は範頼の口封じをしたのではないか。
13人合議制の発足後、次第に権力欲を持った時政であれば、無かったとも言えないのではなかろうか。
朝廷との繋がりを重視する頼朝。
朝廷よりも自分たちの所領を安堵し、朝廷からの自立を進めたい御家人たち。
そして、幕府の実権を握りたい北条氏。
さまざまな思惑が、頼朝の死には交錯していたように見える。
頼朝の娘の大姫を後鳥羽天皇の妻にしようと動いていたが、これは失敗した。
娘を朝廷に嫁がせようとするくらいだが、頼朝が朝廷との関係を重視していたのは明らかだった。
朝廷との関係を軽視していた北条&御家人らは、頼朝のこうした行動を苦々しい想いで見ていたかも知れない。
そして、頼朝の死で、結果的には、北条&御家人らは朝廷に組み込まれずに済んだのだ。