大正時代

大正時代の流れ

大正デモクラシーと金権政治

大正時代とは1912年7月30日から1926年12月25日の15年間。
大正時代は、日露戦争後の日比谷焼き打ち事件などをはじめ、世論が政府を動かす時代の到来となり、大正デモクラシーによる普通選挙が実現した。
普通選挙による政党政治は、最初から腐敗しており、選挙活動の資金を得る為、政党の多くが企業などと癒着していた。
この金権政治体質は、国家主義者と軍部が台頭する大きな要因となった。

協調外交から孤立へ

第一次世界大戦を機に、日本は列強の仲間入りを果たし、国際連盟では常任理事国という地位に昇りついた。
戦後の世界は協調外交、軍縮の流れで出来ており、政府もその重要性を認識していた。
それに不満を持った軍部は、軍縮や、恐慌や凶作の為に、庶民の苦しい生活が改善されない事に苛立っていた。

日本政府に対するクーデター未遂

世論は満州事変を起こした軍部に必ずしも批判的ではなかった。
政府の転覆を狙った五一五事件事件や二二六事件では、首謀者の将校たちは処罰されたが、彼らに同情する人も少なくはなかった。
結局、日本は世界から孤立する道を選ぶ事により、この状況を変えようとしたのだ。

近衛文麿と東条英機

軍部、特に陸軍の発言力が高まっていった。
政府は関東軍など陸軍の行動に引きずられて行くが、ただそれを諦観していた訳ではない。
戦争への道を進む日本を食い止めようとする動きも当然あり、近衛文麿(このえふみまろ)首相はその代表格であった。
近衛はエスカレートする日中戦争を解決し、対米戦争を避ける事も考えていた。
対立する陸相東条英機(とうじょうひでき)の前に近衛内閣は崩壊する。
その直接の原因となったのは、近衛のブレーンが関わった国際スパイ事件(ゾルゲ事件)であった。
これは太平洋戦争(大東亜戦争)勃発の、僅か一ヶ月前の事であった。

大正時代の出来事

大正政変

明治が終わり大正政変が起こる。
政治に関心を強めた民衆が内閣を総辞職へ進めた憲政擁護運動である。

民衆が政治を動かした大正政変

日露戦争後、莫大な戦費を支払う日本の財政は苦しく、政府は緊縮財政を続ける事になった。
しかし、その状況で陸軍は朝鮮半島への二個師団増設を求めていた。
第二次西園寺内閣がそれを拒否した所、元老の山県有朋上原陸軍大臣が内閣と対立した。
上原陸相は閣議を経ずに直接天皇に申し出る事で辞職した。
当時は現役の軍人以外は陸海軍大臣になれず(軍部大臣現役武官制)、陸軍の協力を得られなかった内閣は総辞職した。
次は第三次桂太郎内閣であったが、陸軍や藩閥を後ろ盾にした内閣を非難する声が上がり、尾崎行雄犬養毅らを中心として、政治家、財界人などが打倒運動を展開する。
護憲運動と呼ばれ、集会には二万人もの人々が集まった。
その結果、桂内閣が50日程で総辞職したのが大正政変である。

大正政変のその後

桂内閣の次には海軍の山本権兵衛が首相となり、軍部大臣現役武官制を修正する等の官僚機構改革に取り組んだ。
しかし、海軍拡張計画が反対され、さらに海軍高官が軍艦発注の際にリベート(賄賂)を受け取るという「シーメンス事件」が起こり総辞職に追い込まれたしまった。
次に台頭したのは、引退していたが国民人気が高かった大隈重信である。
難しい政局が待ち構えていたが、同時期、第一次世界大戦が勃発した。
大隈は参戦という大義名分の下、懸案だった二個師団増設と海軍拡張は実現された。
戦地から離れていた日本国民は大戦景気に沸くのであった。

第一次世界大戦と大陸進出

1914年に勃発した第一次世界大戦。
日本には欧米列強と肩を並べ、アジアでの日本の地位を拡大する絶好の機会が到来した。

史上初の世界大戦に参戦

オーストリア皇太子がセルビアの青年に暗殺されたサラエボ事件を切っ掛けに世界大戦が始まった。
英仏露の三国協商側と独伊オーストリアの三国同盟側は、ヨーロッパで大規模な戦闘を展開した。
日英同盟を根拠として、英国は日本に東シナ海でのドイツ船攻撃を求めてきた。
日本政府はアジアでの地位を拡大する好機と考えた。
日本はドイツに宣戦布告し、ドイツ領を占拠していった。

大陸進出

日露戦争勝利で得た満州などの権益は、期限切れが迫っていた。
政府は満州、及び中国での勢力も拡大する方針を立て、中国の袁世凱(えんせいがい)政府に二十一カ条の要求を突き付ける。
中国側はドイツ権益の継承、満州などの権益期限の延長など、屈辱的な要求を受け入れた。
しかし、中国での反日の気運は高まり、日本の大陸進出を察知した欧米列強も、日本を警戒し始めるようになる。
この頃、対中国政策の一貫性を欠いていた大隈は、対中強硬派の日本人に襲撃され、政府内の支持を失い失脚、次に寺内正毅が首相となった。
寺内は側近の西原亀三を使って、袁世凱を継いだ段祺瑞(だんきずい)にに巨額の借款を与えて権益拡大を狙った(西原借款)。

シベリア出兵

一方、ロシア革命による社会主義政府成立に驚いた英米仏などは、シベリアへ出兵する。
日本もこれに協力して軍隊を出動させたが、列国の撤兵後も居残った為、内外から非難を浴びる。
日本軍兵士が現地勢力に敗退する二港事件もあり撤兵したものの、犠牲の割りに成果はなかった。

民本主義 大正デモクラシー

民主主義ではなく民本主義と訳された大正デモクラシー。
初の平民出身の首相である原敬(はらたかし)の本格的な政党内閣が発足した。
しかし、汚職事件の頻発と普通選挙への反対から、平民宰相は暗殺されてしまう。

民本主義と米騒動

第一次世界大戦は民主主義(デモクラシー)と専制主義(オートクラシー)の戦いとも考えられていた。
日本でも大正デモクラシーと呼ばれることになる風潮が、大戦中から広まっていくが、その代表は吉野作造の唱えた民本主義であった。
政治政策の決定は民意に基づくべきだとされ、議会中心の政治や普通選挙の実施が訴えられていった。

一方、戦争景気で成金(急にお金持になった人)が現れていたものの、工業労働者の増加や都市への人口集中、軍用米の増加は深刻な米不足を招き、全国に米騒動が拡大していった。
外米の輸入などにより騒ぎは鎮圧されたが、寺内内閣は退陣となった。

原内閣と政友会

その後、登場したのが、藩閥ではなく、爵位をもたない初めての平民宰相 原敬であった。
原内閣は、陸海外相以外は政友会会員の本格的な政党内閣で、国民はこれを歓迎・期待していた。
原首相は選挙資格の拡大や産業の振興など積極的に政策を進めるが、戦後の恐慌が日本を襲った。
政党間の争いも激しくなり、利権を巡る汚職事件が発生する。

労働者による社会運動が盛んになったものの、原内閣は厳しい態度で臨む。
活発になっていた普通選挙実施運動も時期尚早と一蹴し、そのため原首相の人気は凋落する事になる。
そして、原や政友会に不満を持った青年により、平民宰相は暗殺されてしまった。
その後立憲政友会総裁となった高橋是清(たかはしこれきよ)が首相となるが、閣内の不和で総辞職となる。
その後、暫くは非政党内閣が続く事になるのであった。

国際社会からの孤立を避けた政府

初の世界大戦で疲れ切った欧州諸国は軍縮の道を迫られていたが、日本も世界と共に歩む必要性を求められていた。
日本は協調外交の時代を迎えるが、その陰で、内外に不穏な空気が広まっていた。

国際協調の流れ

第一次世界大戦は、それまでの戦争とは比較出来ない程の被害をヨーロッパ諸国に与えており、その経験が世界を軍縮へと向かわせる事になる。
パリ講和会議では戦後の処理が話し合われ、ベルサイユ条約が結ばれた。
しかし、その条件は敗戦国であるドイツに対して極めて過酷なものであり、これが後の第二次世界大戦に繋がっていく。

国際平和の実現に向けて国際連盟が発足、日本は常任理事国として国際的な地位を高める事になる。
この時期、米国は国際連盟に加盟しなかったものの、国際政治の主導権を握りつつあったので、ワシントン会議の開催を呼びかけた。
幾つか条約が締結され、日本は中国問題で譲歩し主力艦の保有制限に同意した。
政府が進めた協調外交は、この会議の全権団に加わった幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)の名を取って幣原外交と呼ばれる。
その後も1930年頃まで軍縮の流れは続く事になる。

協調外交への軍部の反発

協調外交が進む一方、国内外ではそれに対立する動きも芽生えていた。
朝鮮や中国では反日運動が拡大しており、政府は融和的な政策を取り、協調外交を展開し続けた。
しかし、軍部は軍縮に反発、協調外交への不満を募らせていった。
やがてその不満は軍部の中国での独走という形で現れていく。

大戦で敗北した国では、敗戦後すぐにファシズムが台頭していた。
協調外交の時代では、既に第二次世界大戦への動きが始まっていた。

社会主義運動

民主主義的な風潮の中で関東大震災が起こり、社会に対する不満を募らせる人々、労働者や農民、婦人らが行動を起こす。
社会主義運動への弾圧も行われる。

頻発する労働争議

大正デモクラシーで広まった民主主義的な風潮は、労働者や農民などの権利主張の動きを活発にしていった。
日本労働総同盟などの労働組合は、経営者側との闘争姿勢を強め、労働争議を盛り上げて行く。
その影響で様々なストライキが断行され、日本最初のメーデーも行われた。
しかし、組合側の内部でも対立が生じ、分裂や組合再結成が繰り返される。
農村では小作争議が頻発、さらに組合を結成して地主に要求を突きつける運動も広がった。

労働者の意識の高まりと共に女性の地位向上を目指す運動も盛んになっていく。
青鞜社(せいとうしゃ)を創立した平塚雷鳥(ひらつからいちょう)は、市川房枝(いちかわふさえ)らと共に、新婦人協会を結成する。
婦人参政権運動を行い、政府を動かしていったのだ。

社会主義運動と震災

改革運動の中には国家主義運動もあった。
特に猶存社(ゆうぞんしゃ)の北一輝(きたいっき)は、天皇中心の国家社会主義的な国を築く事を唱える本を秘密に出版する。
そして、それは、政府に不満を抱く青年将校に次第に大きな影響を与えていく。

これに対する社会主義運動では、無政府主義からロシア革命に影響を受けたマルクス主義が主流となり、大杉栄らは日本社会主義同盟を組織する。
また、日本共産党が秘密裏に結成された。
ところが関東大震災が起こると社会主義者や外国人が暴動を企てているというデマが流れ、大杉栄らは殺害されてしまう。
共産党も混乱の中、対立が生じ解党する結果となった。

定着しなかった民主主義による政党政治

第二次護憲運動

貴族院を基盤とし特権階級を主体とした清浦内閣は、護憲三派と呼ばれた三政党から非難され、総辞職へと追い込まれた。
連立内閣を成立させた護憲三派は、普通選挙法治安維持法を成立させる。
加藤首相は普通選挙運動の影響とは別に、社会革命を避ける手段として普通選挙の実施に踏み切った。

憲政の常道と五一五事件

その一方、旧ソ国交が回復した結果として、社会主義運動の活発化が予想された為、これを取り締まる治安維持法も成立させた。
社会主義思想に関わる一切の結社、行動を禁止するというもので、後に最高刑の死刑まで加えられた。
加藤内閣から八年間、議会の第一党が組閣を行う「憲政の常道」が慣例となった。
しかし、大正が終わり昭和となったと後、様々な事件が重なる事で、政党政治は五一五事件により、その幕を閉じる事となった。
この時代の政党政治は、まさに金権政治そのものだった。
ようやく実現しかかった本格的な民主主義による政党政治は、皮肉にも軍部が台頭する原因を作ってしまったと言える。

戦後バブルと恐慌の時代

戦後恐慌と金融恐慌

第一次世界大戦で好景気を迎えた日本であったが、大戦後、列強の生産力が回復すると輸出は後退し株価が暴落、一気に不況に転落する。
更に、そんな状況の日本を関東大震災(1923年)が襲った。
政府は決済不能となった震災手形に対して特別融資を行い、その後、未決済分の処理に取り掛かった。
しかし、銀行の経営状態が悪化している事が明らかとなり、取り付け騒ぎが起こる。
これが、金融恐慌の始まりである。
政府は、三週間の支払い猶予を命じて全国の銀行を一時休業させた。
そして、日本銀行に非常貸し出しを行わせた。
この金融恐慌で中小銀行は相次いで倒産した。
大銀行を持つ財閥は、それら中小銀行を吸収し経済界の支配を強めていく。
さらに、三井や三菱は政党とも結びつき発言力を持つようになる。

金解禁と世界恐慌

第一次世界大戦中、金の輸出を禁止していた政府は、為替相場の安定と輸出促進のため、金の輸出解禁に踏み切った。
しかし、その準備が整う頃、米国ニューヨークの株価が大暴落した。
影響は拡大し、世界恐慌となった。
日本の金輸出解禁は最悪のタイミングであったと言える。
英国などが金の輸出を禁止すると、日本もそれを追従するが、既に恐慌は国内に浸透ししまっていた。
物価や株価や下落、賃金はカットされリストラによる失業者が溢れかえったのだ。
農村では農家の困窮が深刻となり、婦女子の身売りが行われるようになった。

このような状況で青年将校らを中心に国家改造運動が活発となる。
政治家と共に、政党と癒着して利益を上げていた財閥が非難の対象とされた。


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