明治時代後期

日清戦争と大陸進出

明治時代後期、日本は朝鮮半島での利権をめぐって、清、ロシアとの争いが激化していた。
二つの大国と対立する事は決して望ましくはない。
しかし、朝鮮半島をこれらの国に押えられてしまうと、日本の存亡に関わるため、日本側も受け身ではいられなかった。
辛うじて、日清戦争日露戦争の二度の戦争に勝利し、朝鮮半島を統治下に治める事に成功した日本だったが、さらに日本は、満州にまで進出を画策。
日本の大陸での勢力拡大を警戒したアメリカとの関係が深刻なまでに悪化していく。

朝鮮半島の動き

日朝修好条規を締結した後も、政府のアジア外交において朝鮮は重要な位置を占めていた。
とくに朝鮮半島がロシアの勢力下に入る事は、日本の存亡にも関わる問題であった。
政府は、朝鮮を影響下に置く事を考えていたが、清は朝鮮を属国とみなしていた。

壬午軍乱と甲申事変

1880年代、朝鮮では日本から軍事顧問を招いて国内改革が進んでいたが、保守派は日本公使館を襲うなどのクーデターを起こす(壬午軍乱)。
その後、清がフランスとの戦争で敗北を続けると、今度は改革派が日本公使の援助を受けて蜂起する(甲申事変)。
しかしこれも失敗に終わった。
その後、天津条約により、事後処理が行われ、朝鮮は清の影響下に置かれる事となる。
自由民権派はこれを弱腰外交だとして政府を非難した。

日清開戦

朝鮮で民族主義的な東学党が蜂起すると、日清両国は鎮圧のため挙兵。
日本は清に対し、両国で朝鮮改革を進める事を提案するが、清はこれを拒否する。
その頃、イギリスが日本に好意的な姿勢を見せ、治外法権撤廃も認められた為、政府は開戦へと踏み切る。
この戦争は、約8カ月で日本軍の勝利に終わった。

三国干渉

下関で講和会議が開かれ、日本は大陸進出への第一歩を踏み出したが、ロシアは日本を警戒してフランス、ドイツとともに遼東半島を清へ返還するよう申し入れてきた。
これが「三国干渉」である。
日本は列強に対抗する力が無かった為、ロシアの圧力に屈する事になった。
この干渉に関する国内の反発は強く、特にロシアへの反感が高まっていく結果となる。
日露戦争への準備はここから始まったといえる。

国家の命運をかけた日露戦争

中国での利権を獲得したロシア

小国日本が勝利した為、清の弱さが露呈されると、列強はこぞって清に勢力を伸ばし、植民地の獲得競争を始めた。
日本は朝鮮を勢力下に置く事に成功するも、大韓帝国(1897年以降の朝鮮)に親露派の政権が誕生し、ロシアとの対立が続く事になる。
三国干渉で日本から領土を取り戻した見返りとして、ロシアは清に対し、自国の清国内での権利を大幅に拡大する密約を取り交わした。
さらに清に返還されたはずの遼東半島に租借地を設け、実質的な支配地域としていた。

日英同盟で、ロシアを牽制

清国内で外国人の排斥を訴える義和団が事件を起こすと、列強は連合軍を北京に送り反乱を鎮圧した。
ところがロシアは事件が収束した後も満州に留まり南下の気配を示した為、政府は日英同盟を締結し、これを牽制した。
この同盟は、列強間との初の対等条約であった。

日露開戦とポーツマス条約

満州を巡る問題などについて、政府は外交交渉を進めていたが、ロシアとの戦争を回避する目論見であったのだ。
しかし、民間やマスコミでは開戦論が盛り上がり、外交交渉に失敗した政府は、やむなくロシアとの戦争を決意する。
圧倒的な国力の差を覆し、1年8カ月の戦争で、日本は奇跡的に勝利を収める。
しかし、ロシアとの戦争で力を使いすぎた日本には既に余力がなかった。
そこで政府は、当時のアメリカ大統領であったセオドア・ルーズベルトの仲介によりポーツマス条約を締結した。

政府の意向と民意の不一致

日本の勝利に酔いしれ、民衆たちは多額の賠償金を期待していたが、期待通りにはいかなかった。
余力を残した上で終戦を迎えたロシアとの外交交渉は難航しており、ロシアから賠償金を取るには至らなかったのだ。
条約の内容に大いに不満を持った民衆たちは、日比谷焼打ち事件を起こし、新聞も政府を批判した。

後の日本に対して大きな禍根を残す

政府は、日本に戦争継続能力がなかったことを公にしていなかったのだ。
また、日本軍の勝利が際どいものであった事も、国民には伏せられていた。
この政府や軍の隠ぺい体質は、後の日本の歴史に大きな影響を与える事になる。
日露戦争の勝利は、日本の進路を悪い方へ変えてしまった。

大陸進出と対米関係の悪化

韓国併合

韓国統監府の設置

日露戦争が勃発すると、日韓議定書が調印された。
これはロシアとの戦争を行う上で、日本軍が朝鮮半島を自由に行き来する事を、韓国との間で約束するものだ。
政府はさらに、韓国の保護国家化へと本格的に動き出す。
そして、ロシアとの戦争に勝利した後、日本は朝鮮半島に韓国統監府(とうかんふ)を置き、さらに満州へと進出する事になる。

名称が再び朝鮮に

韓国はハーグの万国平和会議に密使を送り、日本の政策を非難したが、受け入れられなかった。
さらに、密使が明らかにされた為、日本政府は皇帝を退位させ、内政権をも掌握する。
韓国では反日運動がより強まり、その結果として統監府統監であった伊藤博文は、ハルビンの駅で韓国の民族運動家に暗殺された。
翌年、政府は韓国併合を強行する。
植民地として、名称を朝鮮に改め、天皇直属の朝鮮総督府が置かれる事になった。

悪化するアメリカとの関係

満州を巡り、アメリカと対立

日露戦争後、アジアへの進出を諦めたロシアとの関係は、協調的になっていった。
しかし、その一方で日本の強大化や満州進出を警戒するアメリカとの関係が悪化していく。
アメリカは満州鉄道の共同経営を提案するも、日本側はこれを拒否してしまう。
欧米諸国で黄色人種を警戒する黄禍論(こうかろん)が出ていた事もあり、アメリカやカナダでは日本人移民排斥運動も広まっていった。

北米で日本人移民への危機感

アメリカへの日本人の移民は明治初年から始まった。
20世紀に入ると毎年1万人程の割合で増えており、大量の移民の流入に対する危機感が北米で募っていたのだ。
政治的な情勢のみならず、根本的な文化の違いによる違和感も摩擦の原因となっていた。
日本とアメリカの関係は緊張をはらんだまま、新たな様相を呈していく事になる。


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