足利義満

南北朝を統一 足利義満

足利義満

11歳で室町3代将軍に就任

足利義満は、父である足利 義詮(あしかがよしあきら)の死去に伴い、1368年に11歳という若さで室町幕府の3代将軍に就任した。
就任から間もなくは管領の細川頼之の補佐を受けながら政務にあたっていたが、1379年には頼之が失脚してしまい、後任の斯波義将(しばよしまさ)が補佐にあたった。
しかし、その頃の義満はもう成人しており「花の御所」と呼ばれる邸宅を京都の室町に造営しており、特に補佐を必要とせずに親政を行った。

朝廷内でも高い地位に付く

義満の功績として、まず脆弱だった幕府の権力基盤を確立した事が挙げられる。
父祖の例を超えて内大臣にまで就任しており、さらに武士として初めて准三后(じゅんさんごう:三后に順ずる待遇を持つこと)に就任した為、朝廷内においても極めて高い地位に付くことが出来たのである。

守護の反乱を抑え、南北朝を統一

義満の功績として二つ目に挙げられるのは、地方の有力守護の勢力を削ぐことにも尽力した事である。
まず、奉公衆呼ばれると幕府の直轄軍の戦力をさらに強化する事で、自身が持つ軍事力を強化したのだ。
次に台頭してくる守護たちを挑発によって、あえて反乱を起こさせてから奉公衆の力で弾圧する、という手法をとって行った。
1390年には土岐康行の乱(ときやすゆきのらん)を治め、翌年には明徳の乱(めいとくのらん)で山名氏清(やまなうじきよ)を、そして1399年の応永の乱(おうえいのらん)で大内義弘(おおうちよしひろ)の反乱を治めて、多くの有力守護を抑えることに出来たのである。
1392年には南朝の後亀山天皇から三種の神器を取り戻し、南北朝の統一に成功する。
さらに1394年には太政大臣にまで上り詰めており、武家としても公家としても最高の位に立つことだ出来たのだ。

日本国王を自認し、日明貿易を行う

南北朝の統一後に義満が行ったのが、元寇以来途絶えていた大陸との国交、つまり明との国交である。
義満は明に対して朝貢品を送る事で明との国交を開く事に成功した。
その際、明の皇帝は義満を「日本国王」と称したと云われる。
これは、日本国外から見た場合、天皇や公家よりも義満の力がはるかに大きく見えていた為であった。
※もっとも、明の皇帝からすれば、義満が明に服属して家臣となり、明の冊封体制に組込まれたという認識である。
国交回復の際、義満は明からの求めに応えるため、倭寇とよばれる海賊行為を取り締まった。
そして、1404年に日本と明との正式な貿易である「日明貿易」が始まったのである。
※この貿易は勘合符と呼ばれる明が発行した割符を用いた為「勘合貿易(かんごうぼうえき)」とも呼ばれる。
>> 倭寇と勘合貿易

倭寇図鑑

倭寇図鑑

室町時代を中心に中国や朝鮮を襲った倭寇の姿を描いた絵画資料
東京大学資料編纂所

1397年、金閣寺を造営

勘合貿易によって幕府は莫大な利益を得ることが出来た。
この利益によって経済的な権力基盤が確立され、義満は室町幕府の全盛期を築くことが出来たのだ。
そして1397年には、現在でも義満のシンボルといえる建物である金閣寺が造営された。
金閣を中心とした公家文化と武家文化の融合は、後に北山文化と呼ばれるのである。



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