江戸時代

江戸時代

江戸時代とは西暦1603年から1868年までの265年間の時代を指す。
徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた年から、徳川15代将軍の徳川慶喜が大政奉還により、幕府としての権限を朝廷に返上した年までの期間である。

徳川家康

徳川家康

江戸時代の出来事

徳川将軍家と豊臣家の対立

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。
その後、家康は僅か2年で息子の秀忠に将軍職を譲るのである。
徳川家が代々、将軍職を世襲する事を世に示す必要があったのだ。
この時、家康は大坂城の豊臣秀頼に京都で秀忠の将軍就任を祝うよう要求するが、拒否されてしまう。
豊臣方は、徳川が将軍職に就いたとはいえ、徳川は豊臣の家臣であると考えていたのだ。
豊臣家はこれにより、家康にとって最も厄介な存在となる。

大坂の陣で豊臣家が滅ぶ

家康は、江戸幕府の政権強化を行う一方で、豊臣家に対する方針も固めていく。
家康は、豊臣家を征伐する名目を求めていた。
そこで方広寺の鐘のある一文に目を付けたのだ。
国家安康」「君臣豊楽」の文字である。
この文字が「家康」を引き裂き、「豊臣」の安泰を願うものだと豊臣家を非難したのだ。
これにより1614年に大坂冬の陣が勃発する。
この戦いでは、大坂城のあまりの堅強さに幕府軍は苦戦を強いられる。
しかし、一度講和を結んだ後に、城の外堀を埋め尽くす事で、大坂城の弱体化に成功した。
そして、翌年の1615年の大坂夏の陣で、豊臣家は滅んでしまった
>> 大坂の陣

大坂城天守閣

大坂城天守閣

徳川幕府の平和宣言

幕府は豊臣家を滅ぼすと、元号を「元和」とし「元和偃武(げんなえんぶ)」を宣言した。
「偃武」とは「武器を蔵に納めて、戦いをやめよ」という意味であり、これは徳川家の平和宣言であったのだ。
幕府は、徳川家との関係により諸大名たちを全国各地に配置し、城を一つまでと限定した。
そして、武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定して、武家を厳しく統制したのだ。
同様の法度は朝廷や自社にも出された(禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと))。
大坂の陣の後、秀忠の名でこれらの法度を公布させた家康は、1616年に亡くなった。

徳川の長期安定政権を目指す

1623年、秀忠は徳川家光に将軍職を譲った。
幕藩体制が確立されるのは、三代家光の時代なのだ。
家光は生来の将軍で戦った事がなかったためか、力を誇示するような大名統制を進めていく。
30万ほどの軍勢を率いて上洛した事もあった程だ。

家光の大名統制

家光は1635年の武家諸法度改定で参勤交代を義務付けた。
参勤交代とは、各藩の藩主を定期的に江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことである。
これにより、大名たちは莫大な出費を余儀なくされたのだ。
一方、幕府の権力は絶大なものであり、全国の石高の1/4を占める700万石を誇った。
老中、若年寄、大目付などの職制が定まったのも1653年前後であり、それぞれの職には譜代大名か旗本が就任した。

江戸幕府の外交政策

ポルトガル、スペインに続いて、オランダ、イギリスなどが日本に来るようになり、外国との貿易はより盛んになっていた。
海外に渡る日本人も増え続けて、幕府は許可証である朱印状(しゅいんじょう)を与える事となったのだ。

キリスト教は禁止

幕府は、貿易は奨励したものの、キリスト教は禁じていた。
キリスト教対策は次第に厳しくなり、その影響は貿易にも及んでいた。
最終的には、ヨーロッパの国で貿易が許可されたのは唯一オランダだけとなってしまった。
オランダはプロテスタントの国で、布教活動を行わなかったのが、その理由であった。

キリシタン弾圧と一揆

一方、キリスト教弾圧はさらに激しくなり、踏絵が始まる。
1637年に勃発した「島原の乱」は、領主の悪政とキリスト教弾圧が原因で起こった農民一揆であった。
この乱の鎮圧には、オランダ船も駆り出されており、一揆軍が籠城した原城に対して砲撃を加えている。

鎖国でも、貿易は出来た

幕府は鎖国令という条例を出したわけでなはい。
海外交易を制限する政策を出している内に鎖国の状態が出来上がったのだ。
これは、幕府の貿易独占の一面もあったのだ。
長崎の出島ではオランダ、中国と貿易し、薩摩は琉球と、松前は蝦夷と、そして対馬は朝鮮とそれぞれ交易を行っていた。
鎖国とは言っても、計4つの窓口があったのだ。
>> 江戸幕府の鎖国政策

農民の生活は厳しい

幕府の経営上、まず何よりも大切だったのは年貢を確保する事だ。
そのためには農村の経営を安定化させることが不可欠であった。
農民を統制するために、幕府は様々な制限を行っていった。

農民は規制により統制される

1643年3月に出された田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)は、百姓が畑を売って小作人となる事を防ぐ為に定められた。
1640年から1643年に掛けて、寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)が起こっており、飢饉による百姓の没落を防ぐ目的もあったのだ。
しかし、売れる物が土地しかない小百姓と、土地を買いたい大百姓がいたのも確かであった。
慶安の御触書(けいあんのおふれがき)では贅沢の禁止など、日常や労働について細かく触れられている。
これは農民の生活にかなり干渉した内容で、ある意味では農民を守るための「口出し」ともいえるが、幕府は農民が貨幣経済に巻き込まれる事を危惧していたのだ。

三都と各地の交通整備

幕府や諸藩の年貢米は、海路や陸路で全国各地に運ばれていた。
交通、流通の整備は江戸大坂京都の三都を中心に、徐々に地方へと整備が進められていった。
さらに、東海道などの五街道からは、数多くの支線(脇街道)が開かれた。
関所が置かれ、「入鉄炮出女(いりてっぽうとでおんな)」が厳しく取り調べられ、飛脚が整備されたのもこの頃である。
江戸の七割は大名たちの藩邸で占められており、町人は一割強の土地に50万人ほどが暮らしていた。
家を借りなければならない町人の多くは、六畳ほどの裏長屋で生活していたのだ。

由比正雪の乱

徳川家光が亡くなると、幕府への反乱計画などが相次ぐ。
中でも、最も重要な事件が、兵学者の「由比正雪の乱(ゆいしょうせつのらん)」である。
由比は浪人を率いて幕府への反乱を計画していた。
家光時代の大名への転封(領地の移動)や減封(領地の削減)、改易(取り潰し)などにより、主人を持たない浪人が大量に発生してしまった。
由比の反乱はその世相を反映したものだったのだ。
浪人は、子のいない主家の当主が死亡した場合「御家断絶」となるため生じる。
そこで幕府は、主が市の直前に養子を取る事を禁じていた「末期養子の禁止」を緩和したのである。

殉死の禁止

家光の死後、老中などが殉死(主君の死を追って臣下などが死ぬこと)している。
それまでの武士の世界では、殉死は珍しい事ではなく、伊達政宗の死後は15人が、細川忠利の死後は19人の家臣が殉死を遂げている。
四代将軍の徳川家綱殉死を無益なものとして禁止したのである。
家臣には、主人の死後は跡継ぎの新しい主人に仕える事を命じている。
つまり家臣とは主人ではなく、主人の「家」に奉公する事になったのである。
そのため、戦国時代のような下剋上は起こらなくなったのだ。
三代家光までは力による政治が行われていたが、家綱の時代から儒教的な教えに基づいた文治政治が始まった。

五代将軍 徳川綱吉

家綱には子がいなかったため、遺言により徳川綱吉が五代将軍に就任する事となった。
将軍就任に尽力した老中、堀田正俊は大老になったが、その後暗殺されたしまう。
30代半ばの綱吉は大老を置かず、側用人という役職を設けている。
そして武士には儒教に基づく忠孝・礼儀を求めていた。
世の中は戦乱が亡くなり平和になったものの、昔の価値観を引きずって暴れる者や殺生を行う者が多くいたのだ。
そして、1687年(貞享4年)に綱吉によって発布されたのが「生類憐れみの令」である。

生類憐みの令

生類憐みの令」とは、135回も出された複数のお触れを総称だ。
殺生を禁止する事はもちろん、捨て子も禁止されていた。
さらに、保護の対象は犬、猫、鳥、魚類、貝類、虫類などにまで及んでいた。
何度も発せられたのは出しても守られなかったためであり、24年間で処罰された事件は69件に及んでいる。
「天下の悪法」とも言われるが、あくまで命を大切にする事を定めたものであるため、悪法と一概には言えない。
しかし、綱吉の死後、すぐに廃止された事から、多くの人々を苦しめる結果となった事は確かである。

元禄小判の発行と物価の高騰

度々起こる大火や金銀の産出量の低下などにより、この時代の幕府の財政は破綻していた。
荻原重秀(おぎらわしげひで)は貨幣改銭(かへいかいちゅう)を提案し、勘定奉行となった。
金の含有率を減らした元禄小判(げんろくこばん)を発行して幕府の収入は増加したが、貨幣価値が下がり、インフレが進んだ結果、物価が高騰してしまう。
庶民の生活は圧迫されるようになっていくのである。
元禄小判は後に廃止され、 新井白石によって新たに正徳小判が発行される。


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