江戸幕府の統制力強化の為に始められた「鎖国」政策は、対外関係を安定させ、国内の平和と文化の繁栄を生んだ。
ただし、鎖国とは言っても、完全に国が閉じられていた訳ではなく、地域によっては海外との交流も行われていた。
特に長崎の出島では、江戸時代を通じてオランダとの交易が行われていた。
江戸幕府の創出した「鎖国(さこく)」体制とは、キリスト教の排除(禁教)して対外関係を統制する事で、自己を中心とした周辺諸国・諸地域との安定的、固定的関係を構築するモノだった。
近年、それは鎖国というより、海禁政策(かいきんせいさく)の発動だった取られる見方が一般化している。
海禁政策とは、中華の伝統を背景に中国人の私的な海外渡航を禁じた政策の事を指し、14世紀後半から明(みん)によって、本格的に実施された。
日本の歴史において、本格的なキリスト教の弾圧を始めたのは、豊臣秀吉であった。
前任者の織田信長はキリスト教の不況を受け入れており、豊臣秀吉も当初は黙認していた。
しかし、1587年にバテレン追放令を出し、1596年にサン=フェリペ号事件が発生すると、切支丹(キリスト教徒)に対する直接迫害が始まった(日本二十六聖人殉教事件)。
豊臣秀吉
徳川家康は当初貿易による利益を重視していた為、キリスト教の布教を許可するとも思えた。
しかし、オランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していた為、家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由は無くなってしまう。
そして、1612年の岡本大八事件を切っ掛けに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌1613年に、キリスト教信仰の禁止が明文化された。
また「鎖国」という言葉は、19世紀初頭に長崎通詞(通訳官兼商務官の事)の志筑忠雄(しづきただお)が創り出した造語で、「鎖国」が確立していく時期には、幕府の鎖国政策を「鎖国」と認識した人物はいなかった。
「鎖国」とは言っても、国を閉ざすという文字通りの政策を摂っていた訳ではないのだ。
「鎖国」政策が取られていた時代に国外との接触が許可されていたのは、長崎、薩摩(鹿児島)、対馬、松前(北海道)の四か所であった。
西暦 | 主な出来事 |
---|---|
1612年 | 直轄領に禁教令が敷かれる |
1613年 | 全国に禁教令が敷かれる 翌年キリスト教徒300余人が国外に追放される |
1616年 | 欧州船の入港地を平戸と長崎に制限 |
1622年 | 元和の大殉教 長崎で55人のキリスト教徒らが火刑、斬首に |
1623年 | イギリスが日本より撤退 |
1624年 | スペイン船の来航禁止 |
1629年 | 踏絵が始まる |
1630年 | キリスト教図書の輸入禁止 |
1633年 | 奉書船(朱印状に加え、老中の許可証を持った船)以外の海外渡航が禁止される 海外に居住する日本人の帰国制限 |
1635年 | 外国船の入港地を長崎に制限 日本船の海外渡航を全面禁止 |
1637年 | 島原の乱勃発 島原、唐津藩のキリスト教弾圧と圧政に対する、キリスト教徒と農民の反乱 |
1639年 | ポルトガル船の来航禁止 以後、200年に及ぶ「鎖国」体制が完成する |
1641年 | オランダ人が出島に移される |
「鎖国」に対する評価は、日本独自の文化が開花したとする肯定的な見方と、世界の潮流から日本だけが隔離されてしまったと否定的な見方がある。
「鎖国」によって平和が長く続き、経済や産業が発達して国内が一体化された事が、明治初期の急速な発展の基盤となった事も否定は出来ない。