出島

出島の歴史

世界都市、長崎誕生

1571年(元亀2年)、ポルトガル船が入港し、以来長崎は世界都市として発展を続けてきた。
長崎の町には南蛮寺(キリスト教会)が建てられ、キリスト教が広がり、日本各地から商人たちが集まって来た。
しかし、豊臣秀吉の時代になると、長崎は天領となり、キリスト教への弾圧が始まった。
そして、江戸幕府は徐々に貿易の独占と、キリスト教の禁教政策を強化していく。

出島築造と日蘭交流

1636年(寛永13年)、長崎の町の岬の先端に幕府の命により、長崎の25人の有力な町人が出資して、約1万5千平方メートルの人口の島、出島が築造された。
この人口の島である出島は、海を埋め立てて築いた島という事から「築島」、その形が扇型をしていた事から「扇島」等とも呼ばれた。
しかし、海の中に島を作るという発想、工事の設計・監督にあたった人物、その土木技術の詳細については、現在でもよく分かっていない。

出島の完成と、鎖国の完成

町の中で暮らしていたポルトガル人を出島に収容し、貿易の掌握とキリスト教の広まりを防ぐ仕組みが完成したが、その翌年の1637年に島原・天草一揆が起こり、1639年(寛永16年)にはポルトガル船来航が禁じられる。
その後、当時、平戸で貿易を行っていたオランダの商館出島に移される事になったのだ。
これ以降、幕末の時代まで日蘭交流は続き、日本とヨーロッパ間の唯一の貿易地、また蘭学を初め日本の近代化に必要な情報の発信地として、出島は重要な役割を果たしていく。

出島の変還

1859年以降は通商条約に基づき、横浜や函館でも海外貿易が行われるようになる。
これにより、長崎においても貿易の中心は出島からトーマス・グラバーやフレデリック・リンガーたちが活躍した現在の長崎県長崎市南山手町(グラバー園周辺)の外国人居留地へと移っていった。
こうして歴史的役割を終えた出島は中島川の変流工事や、周囲の埋め立て等により次第に都市の中に埋没していき、扇の形の失われていったのだ。
そして、1922年(大正11年)、出島は和蘭商館(オランダ商館)跡として国指定史跡に指定された。

出島の復元

第二次世界大戦後から間もない1951年(昭和26年)、出島の復元計画が動き出した。
元々、町人たちによって造られた出島は民間の所有だった。
その公有化に長崎市は50年の歳月を掛けて取り組んだのだ。
そして、第1期復元整備事業としてヘトル部屋など5棟が2000年に、第2期としてカピタン部屋など5棟が2006年に完成し、第3期としてさらに6棟の建物が立ち並び、2016年の時点で、16棟の19世紀初頭の街並みが出島に蘇っている。

出島の謎 Q&A

なぜ出島は扇型?

出島はどうして扇形をしているのか?これにはいくつかの説がある。

  1. 三代将軍 徳川家光が「長崎に今度造る島の形はいかが致しましょうか?」と尋ねられ、自分の扇を出して「これを見本にしなさい」と言ったという説
  2. 中島川の河口に運ばれた土砂で土台を作り、陸側は海外線に沿って弧を描き、海側も埋め立て面積を出来るだけ広く取ろうとしたため、扇形になったという説
  3. 海側のカーブには高い波の影響を少なくする効果があるため、扇の形を採用したという説
  4. すぐ隣の丘の上にある長崎奉行所から出島の様子がよく監視できるようにするためには扇形が一番よかったという説

建造費はいくらだった?

島は、長崎の25人の有力な町人の出資によって造られた島で、建造費は銀200貫目(約4000両)。これを今のお金に換算すると約4億円である。
※貫目とは重さの単位。1貫目は約3.75kg

どんな人が住んでいた?

長崎には通常、2隻のオランダ船が来航していた。
オランダ船が停泊している間は沢山のオランダ人が出島に滞在していたが、それ以外の期間は少数の人々しかいなかったようだ。
まず、「カピタン」である商館長、「ヘトル」と呼ばれていた次席館長1人、貨物管理の責任者である倉庫長1人、帳簿などを担当した書記役1〜3人、商館長の補助員数人商館医1人調理師や大工、オランダ人の身の回りの世話をする召使など、15人前後の人たちが住んでいた。

出島で働いていた人たち

当時、出島は長崎奉行に管理され、様々な職業の人が働いていた。
その中でも特に活躍したのが通訳だった「オランダ通詞(つうじ)」や、出島の事務処理を手掛けた「乙名(おとな)」。
その他、オランダ人の日用品を調達する人や、火用心番、探番(門番)、料理人など、100人以上が働いていたといわれています。


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