徳川家光

参勤交代を制度化 徳川家光

徳川家光

祖父、家康の裁定で将軍となる

徳川家光は徳川家康の孫であり、2代将軍独川秀忠の次男である。
長男の早世で後継者と目されていた父母が弟を溺愛したため、その立場が危ぶまれた。
最終的に祖父の家康の裁定で家光が後継者に決まった。
家康の立場上、将軍職の世襲化長子相続の原則を周囲に確認させる必要があったのだろう。

臣従の儀礼を、参勤交代という制度へ

家光は権威の根源を家康に求めた。
将軍に就任した後は、巨額を投じて東照宮を改修して家康の神格化に努め、自らもしばしば社参して、後継者としての自分の権威を周囲に示した。
家康は幕府を開くにあたって、様々な政策を打ち出しているが、それが全国規模で浸透・定着し、幕藩体制が確立したのが、この家光の治世である。
例えば、それまで諸大名が自発的に行っていた臣従の儀礼が、1635年の武家諸法度の改訂にあたって参勤交代として制度化を行った。
大名当主が江戸と自領を定期的に行き来し、妻子の江戸居住が義務付けられた結果、これに従う人材が数多く江戸に居住するようになった。
これが都市として江戸の発展につながったのだ。

大軍を率いての上洛

軍役を譜代だけでなく外様大名が負うようになったのも家光の代からといわれる。
家光上洛の際には、譜代・外様合わせて30万余りの軍勢が従い、将軍の権力を誇示している。

鎖国体制を作り上げた

また、島原の乱鎮圧の翌年の1639年、キリスト教の布教を行わせない為、ポルトガル船の来航を禁止している。
その後、唯一渡航が許可されたオランダ商館長崎に移され、いわゆる「鎖国」状態が出来上がったのだ。
ただし、これらの施政を実質的に行ったのは譜代の土井利勝(どいとしかつ)や酒井忠勝(さかいただかつ)、側近の松平信綱(まつだいらのぶつな)たちであり、家光が政治を主導する事は殆どなかった。
家光が公務に長期間現れない事もあったという。
だがこれは、将軍が不在でも滞りなく幕政が執行される体制が出来た事を意味している。
仮に、幼少や暗愚の将軍をいただく事態になっても、政権が安定的に維持できるようになった証拠であるのだ。
家光自身が「我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐(酒井)、左の手は伊豆(松平)。」と述べたと伝えられている。



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