長崎

長崎の歴史

長崎の歴史

九州西部、日本列島の一番左に位置する長崎県。
長崎県が現代の形となったのは比較的近代の事であり、古くは肥前国、対馬国、壱岐国に分かれていた。
現在の長崎市は江戸時代までは天領として江戸幕府の直轄地であった。
鎖国中であった江戸時代、出島を通じて日本の玄関口として開かれていた長崎は、現在でも当時の名残を多く残している。
豊臣秀吉の禁教令による隠れキリシタン立の名残、1945年8月9日の原爆投下、など長崎の歴史をまとめる。

長崎県全景

長崎県全景(GoogleEarthより)

旧石器時代

現在の佐世保市からは、福井洞窟や泉福寺洞窟などの遺跡が見つかっており、旧石器時代には人が住んでいた事が分かっている。
旧国見町(現在の雲仙市)には、百花台遺跡群があり、約3万年前に人々が生活した跡や使われていた道具が見つかっている。
2003年(平成15)12月には、平戸市入口遺跡で10万年前の土層から旧石器が発見された。
長崎が栄えたのは近代に入ってからではあるが、歴史そのものはかなり長い。

縄文時代

縄文時代の遺跡は原山支石墓群、有喜貝塚、佐賀貝塚、白浜貝塚などが発見されている。

弥生時代

『魏志倭人伝』に登場する「一支国」とみられる原の辻遺跡は現在の壱岐市にあり、中国の歴史書と長崎の発掘結果の内容が一致する。
また里田原遺跡が発見されており、当時の農業技術を知る上で重要なものの1つである。
弥生時代の鉄剣が出土した富の原遺跡(大村市)、塔の首遺跡、日本最古のネコの骨が出土したカラカミ遺跡(壱岐市)などの遺跡も見つかっている。

古墳時代

長崎県内の古墳の数は500を超え、その大半は壱岐に存在し壱岐古墳群として日本の史跡に指定されている。
古代の壱岐には有力者がいた証拠である。
古墳時代初期の古墳としては、対馬市の出居塚古墳、根曽古墳群があり、後期に入ると、大規模な古墳が多くなる。
その他、壱岐市の鬼の窟古墳、双六古墳、矢立山古墳群、曲崎古墳群がある。

飛鳥時代

倭国が朝鮮半島での白村江の戦いに敗れたため、664年に対馬・壱岐などに防人や烽(とぶひ)を置き、唐や新羅からの侵攻に備えた。
667年には対馬に金田城が築かれている。

奈良・平安時代

小野妹子をはじめとする遣隋使や遣唐使は、日本の最西北である壱岐や対馬、五島を経由し、朝鮮半島や中国に渡っていた。
五島列島は遣唐使南路の出発地として有名である。万葉集には関連した歌が数多く残されている。
日本最後の寄港地であった、現在の三井楽町柏崎には、空海の「辞本涯の碑」が建てられている。

12世紀のはじめに入ると、平家の西日本への進出が進み、肥前国の松浦党や九州の武士の多くは平家方につき、松浦党は壇ノ浦の戦いにおいても平家方の水軍として戦った。

鎌倉時代

中世には松浦党などの海賊衆(水軍)が興り、対馬を含め各地が倭寇の根拠地となった。
1274年(文永11年)(文永の役)、1281年(弘安4年)(弘安の役)の元寇では対馬、壱岐、鷹島に元・高麗軍が襲来したが、「神風」(大型台風)が九州を襲い元軍が退却したのはこれらの島々が破壊しつくされた後であり、これらの島々に神風の恩恵は全く無かった。

室町時代

1419年には応永の外寇、1507年には五島で玉之浦納の反乱が起こっている。

戦国時代

1550年には、ポルトガル船が平戸に来航した。
これを知ったフランシスコ・ザビエルは鹿児島を出発し平戸を訪れ、布教を開始した。
貿易都市となった平戸であったが、1561年に起きた宮ノ前事件によりポルトガル船は横瀬浦港(現在の西海市)に入港するようになった。
ところが2年後の1563年、横瀬浦は武雄領主後藤貴明の焼き討ちに合い、壊滅。ポルトガル船は再び平戸に戻った。
しかし、イエズス会の宣教師コスメ・デ・トーレスの意向により、今度は大村領の福田浦(現在の長崎市)に入港することになった。
この間、大村純忠はキリスト教の洗礼を受け、初のキリシタン大名となっている。

秀吉と長崎

大村純忠は、ポルトガル貿易を自分の領地で行えるよう働きかけを行い、1571年に貿易港が口之津から長崎に移された。
1580年には長崎をイエズス会に寄進しているが、これが後に豊臣秀吉の怒りを買い、1588年、豊臣秀吉が長崎などを直轄地とした。
1582年には天正遣欧少年使節が長崎港を出発し、スペイン、イタリア、ポルトガルを訪問した。
2年後には天正遣欧少年使節が長崎に戻り、秀吉に謁見していが、良い結果は得られなかったと思われる。
1592年には文禄・慶長の役により、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、宗義智らが朝鮮に出兵している。
南蛮貿易を継続させたい意向もあり、強硬な禁教は行っていなかった秀吉であったが、すでにバテレン追放令が出されており、1597年には長崎西坂でカトリック信者26人が処刑されている(二十六聖人)。

江戸時代

17世紀にはいるとオランダ東インド会社、イギリス東インド会社が相継いで平戸に商館を開設している。
江戸時代の長崎県は佐賀藩、島原藩(島原半島)、大村藩(彼杵地方)、平戸藩(松浦半島・平戸島・壱岐)、平戸新田藩、福江藩(五島列島)、対馬府中藩(対馬)、佐賀藩家老の諫早陣屋、交代寄合の五島家の富江陣屋、天領(長崎)に分かれる。
江戸幕府の鎖国方針により、ポルトガル人は長崎から追放され、1641年にオランダ商館が出島に移った。
中国商船の長崎来航も認められており、長崎は鎖国下の日本では数少ない国際貿易港となった。
また、対馬藩は幕府から李氏朝鮮との国交の実務を委任される傍ら朝鮮との貿易を公認され、釜山に倭館を置いてこれらの業務を行っていた。

長崎奉行所内模型

長崎奉行所内模型

島原の乱

島原の乱は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。
寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。
乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。
鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。

明治・開国以降

幕末の長崎港開港によって各国商船が来航し、長崎は国際貿易港として更に発展を遂げる事となった。
それまでは遠国奉行首座たる長崎奉行が治めていた長崎であったが、「鳥羽・伏見の戦い」に於ける幕府軍敗戦の報を聞いた長崎奉行河津祐邦は慶応4年(1868年)1月15日早朝に長崎を船で脱出。
これを受けて、長崎詰めの各藩藩士や長崎の地役人達の間に協議が行われ、政府から責任者が派遣されるまでの間の暫定協議体として「長崎会議所」の設置が決定され、長崎奉行所西役所がその役所とされた。

江戸幕府崩壊後の慶応4年(1868年)2月2日には澤宣嘉を総督に長崎裁判所が、5月4日には沢を府知事に長崎府が設置され、肥前国松浦郡5村・彼杵郡6村・高来郡5村、筑後国三池郡12村、肥後国天草郡89村の幕府領および肥後国松浦郡の旗本領5村を管轄。
明治2年(1869年)6月20日にはこれが長崎県へと改められ、旧肥前国域は明治4年(1871年)の第1次府県統合の際に長崎県と伊万里県(現佐賀県)とに分立した。
その後、佐賀県の統廃合の影響で徐々に長崎県の県域は拡大し、1874年(明治7年)の佐賀の乱後には、政府による懲罰によって佐賀県全域が長崎県に併合されることとなる。
1883年(明治16年)、佐賀県の復県によって10の郡が長崎県より分離し、おおよその現在の長崎県が成立した。

なお、天草諸島は一時、富岡県(のち天草県に改称)に移管されたのち、いったん長崎府に復帰し、第1次府県統合で八代県(現・熊本県)に移管された。

第二次世界大戦

佐世保は日本海軍の大規模な軍港となり、長崎では戦艦武蔵が建造されるなど造船が発達した。
現在では佐世保には米軍基地があり、同じく軍港・造船の町として発達している。
第二次世界大戦末期、1945年(昭和20年)6月29日(未明)に佐世保大空襲があり、1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分に長崎市に原子爆弾が投下され、広島市とともに原爆被災地となった。

現在

九州新幹線 (長崎ルート)が2022年に開通予定である。

長崎ハウステンボス

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