大阪の陣

豊臣家の最期 大阪の陣

一大名に転落した豊臣家は、その存在を恐れる徳川家康に様々な謀略を仕掛けられ、1615年、遂に滅亡に追い込まれた。

家康に翻弄された淀殿と豊臣家

徳川家康は関ヶ原の戦いの後、西軍大名たちの領地を取り上げ(改易)、あるいは領地を移した(転封)。
その結果、豊臣家は摂津、河内、和泉の3カ国65万石に封じ込められたが、それでも豊臣家の威光や、秀吉が築いた天下の名城・大坂城、金銀財宝、武器・弾薬等の莫大な遺産は、徳川家にとって脅威であった。

徳川家康

徳川家康

国家安康と君臣豊楽

そこへ1614年、豊臣家を挑発する為のまたとない事件が起きた。
秀頼淀殿母子が十数年を掛けて取り組んでいた方広寺(ほうこうじ)の再建された。
大仏開眼を控えたある日、家康は方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた沢山の銘(めい)の中から、不吉な文言を見つけた。
国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽(くんしんほうらく)」という文字だ。
家康はこれが、「家」と「康」を切り離して徳川家を呪い、「臣」と「豊」を繋げて豊臣家の繁栄を願う意味だと考えたのだ。

豊臣秀頼

豊臣秀頼

方広寺の鐘銘

方広寺の鐘銘

二度の戦で、大坂城落城

大坂冬の陣

「国替えをするか、淀殿を人質として江戸に送るか」という選択を迫られた豊臣家は、1614年10月、遂に挙兵した(大坂冬の陣)。
攻め手の徳川軍の兵力は30万ともと言われ、それに対する、大坂城に籠城する豊臣軍は10万程と劣勢であった。
しかし豊臣方は、真田幸村(さなだゆきむら)や後藤基次(ごとうもとつぐ)ら、秀吉に恩を受けた武将や、関ヶ原以後に没落した大名や浪人達を雇っていた。
彼らの奮戦によって、大坂城の守りは非常に堅く、さらに冬の寒さもあり、徳川方も苦戦を強いられた。

講和

そこで家康は、ひとまず講和を結んだ。
その条件の一つとして大坂城の総構(そうがまえ)の堀を埋める事となった。
その際、本田正信(ほんだまさのぶ)に命じて、故意に二の丸と三の丸の堀まで埋めさせ、大坂城の防衛力を弱めさせたのだ。

大坂夏の陣

そして、豊臣方が城を旧状に戻そうとしている事を理由に、翌年4月、再び15万の大軍で攻撃した。
豊臣方の浪人集は奮戦するが、次々と討死を遂げ、遂に大坂城は炎上する。
炎の中で、淀殿・秀頼母子は自刃、秀吉が全国を統一してから25年後、豊臣家は滅亡した。

大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)右隻(大阪城天守閣所蔵)

大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)右隻(大阪城天守閣所蔵)

大坂城炎上 1663年絵図

大坂城炎上 1663年絵図

戦乱の終わり

この大坂の陣によって、戦国時代より長く続いた戦乱が終わり、太平の時代が続く事となる。
この戦いの後、家康は年号を変えると共に、一つの言葉を打ち出した。
元和偃武(げんなえんぶ)」である。
武器を蔵に納め戦を辞めよ、という家康の願いが込められていたかも知れない。


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