江戸の治安維持

官民によって守られた江戸の治安

江戸100万都市の治安と防災を担ったのは民間の力だった。
交通を管理した木戸と木戸番、交番の役割の辻番、消防署の役割の火消、交番と消防署を兼ねた自身番屋、これらの役割の多くは町民らが務めた。
また、街道の出入り口に刑場を設置して、あえて人目につくところで刑を執行することで治安向上を図る、という過酷な施策もとられた。
江戸の治安維持についてまとめる。

江戸街に置かれた「木戸(木戸番)」の役割

木戸番を街で雇い治安を自治

江戸の街の治安は、基本的には自治によって守られていた。
街や長屋の出入り口には防犯・防火のために木戸が設置されていた。
町内で雇った木戸番が住み込みで管理し、木戸を往来する人の確認や火の番を行った。

門限が過ぎると木戸が通れなくなる(例外あり)

木戸の開門は午前6時頃、閉門は午後10時頃で、門限が来ると閉められた。
木戸が閉まっている間は、医者と産婆以外の通行は禁じられた
しかし、どうしてもやむを得ない場合は、木戸番に理由を話して、木戸の左右に設けられた潜戸から通してもらった。

真っ暗な夜道は塞ぐしかなかった

街灯もない時代、それだけ用心しないと治安は守れなかったのだ。
時代劇では泥棒が屋根を伝って逃げるシーンがあるが、これは道が木戸で封鎖されていたからだ。

商売が許可されていた木戸番

日用品売り場でもあり、交番でもあった

木戸番の賃金は安かったので、草履や蝋燭などの日用品、子ども向けの駄菓子やおもちゃなどを売ることが認められていた。
また、近隣の町人や子どもとも知り合いになれるので、不審者の発見にいち早く気付けるという利点もあった。

掲示板としても利用された

他にも、木戸は何かを告知したり、宣伝をする掲示板スペースとしても活用された。
ただし、『江戸名所図会』などの絵には、すべての木戸に戸が備わっていたわけではなく、門だけだった様子も描かれている。

町方に置かれた「自身番屋」の役割

町人によって運営された自身番

町の入り口には木戸や木戸番屋のほか、防犯のための自警組織として「自身番屋」が置かれていた。
元々は地主が「自身番」として警固にあたったが、やがて長屋の大家や金銭で雇われた番人なども詰めるようになった。
犯罪者や不審者を取り押さえたときはとりあえず自身番屋に拘束し、尋問などを行った。

火事で自身番が活躍

町には火の見櫓が設置されていることが多く、火事をいち早く知らせるための火の見梯子や半鐘も備えていた。
交番だけでなく、消防署の役割も兼ね備えていたのだ。

辻斬りを取り締まる「辻番」

現在でいう交番だった

武家屋敷町の辻々には、現代の交番のような役割を担う「辻番」が置かれていた。
寛永6年(1629)、辻斬りを取り締まるために番所が設けられたのがはじまりで、幕末の時点では900ヶ所以上の辻番が置かれていたという。

当初、辻番は武家が管理していた

辻番には、幕府が設置した「公儀御給金辻番(公儀辻番)」、大名が設置した「一手持辻番」、近隣の大名や旗本が共同で設置した「組合辻でもち「番」などがある。
当初は武家が直接運営にあたったが、後に町人が役を請け負うようになった。

少し治安が悪かった辻番

番所には捕物三つ道具(刺又、袖絡、突棒)も常備されていた。
ただし、町人による運営下では、60歳以上の老人が詰めたり、番所内で博打が行われるなどして、しばしば幕府による規制が入った。

大火に立ち向かった「火消」

幕府・大名・町民らが火消を組織した

日常的に火災が起きる江戸では、「火消」と呼ばれる消防組織が存在した。
大名に組織させた「大名火消」、幕府直属の「定火消」のほかに、町人による「町火消」があった。

火消が組をなし、地域ごとに治安維持を担当した

町火消は享保3年(1718)、町奉行の大岡忠相の主導で発足した。
経費は町が負担したが、町奉行所の組織下に置かれた。
隅田川以西の地域は47組(後に48組)、以東の本所・深川地域は16組に分け、それぞれに持ち場が割り当てられた。
ただし、縄張り意識が強かったので、喧嘩をすることも珍しくなかった。

建築現場で働く鳶職が、火消を担当

町火消が成立した頃は、商家の店員などが出動して消火活動にあたった。
しかし、高い場所を怖がったり、自分の店や家が心配で帰ってしまう者が後を絶たなかった。
そこで、建築現場で働く鳶職の人が起用された。

火消は命がけの役割だった

消火活動は一歩間違えると瓦礫の下敷きになるおそれがあったので、命がけの作業だった。
そのため、町火消は江戸の市民から喝采を受けた。

刑場を設置して治安向上を図った

あえて見える所で刑を執行

見せしめによって刑罰への恐怖をうえつける

江戸には慶安4年(1651)に創設された小塚原刑場と鈴ヶ森刑場があったが、どちらも京都と奥州を結ぶ街道の江戸の出入り口部(江戸と校外の境界)に置かれた。
この刑場の配置は、江戸に入ろうとする人への見せしめとして江戸の治安維持にも繋がっただろう。
また江戸と郊外の境で刑を執行することにより、市中を「ケガレ」から守る狙いもあったと思われる。

江戸の刑罰

盗みでも死罪になりえた

江戸時代の刑法には、罪を犯したことを叱責する「叱り」から、「手鎖(両手の自由を奪った状態で生活させる)」、敲(たたき:ムチ打ちの刑)、入墨、財産没収、追放・遠島、そして死刑があった。
殺人はほぼ無条件に死刑で、盗みでも10両以上盗むと死罪になった。

罪の内容によって異なった死刑の内容

想像するだけで恐ろしい刑罰

ひと口に死刑といっても、執行法にはさまざまな種類があった。
罪の重さによって「下手人」「死罪」「獄門」「火罪」「磔」「鋸挽」があり、武士だけに適用される死刑として「切腹」と「斬首」があった。

「下手人」と「死罪」

「下手人」は殺人犯を意味する言葉で、そのまま刑の名称になっている。
喧嘩などで相手を死なせた場合、今でいう過失致死罪に対して適用される斬首刑である。
遺骸は遺族に下げ渡されるので、葬式を出すことができた。
これに対し、10両以上の窃盗、人妻との密通などに適用される「死罪」は「下手人」と同じ斬首刑だれた。

試し切り担当の山田浅右衛門家

刀剣の試し切りは、公儀御試御用役の山田浅右衛門家が務めた。
「浅右衛門」は、山田家当主の代々の名乗りである。
山田浅右衛門家は浪人の身分だったが、刀剣の鑑定などの副業を行っており、江戸市中に立派な屋敷を構えていたという。

江戸の治安維持のための見せしめ

「獄門」

「獄門」も同じ斬首刑だが、刑執行後は刑場の獄門台に首がさらされた。
追い剥ぎや主人の妻との密通などに科された。

「火罪」

「火罪」は放火犯に対して適用される処刑法で、罪人は刑木に縛りつけられ、火あぶりにされた。
火災に弱い江戸では放火は大罪で、多くは焼け死ぬ前に窒息死した。

「磔」

「磔」は親殺しのほか、関所破りや贋金作りなどにも適用された。
罪人を十字架状の磔台に縛りつけて、槍を30回ほど突き刺した。

「鋸挽」

「鋸挽」は6種類の死刑の中で最も重いもので、主人殺しに適用された。
本来は、罪人を土中に埋めて首だけ出し、通行人に鋸を挽かせて死に至らしめる刑罰だが、江戸時代は形だけ埋めて見せしめとし、その後に磔刑に処した。


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