三代の江戸城天守閣

三代の江戸城天守閣

将軍の代替わりには天守が造替

四代以降は天守は造られず

徳川家康によって築かれた江戸城天守閣は1616年(元和2年)に家康が死去すると、2代将軍・秀忠によって1622年(元和8年)に家康の慶長天守は破却、新たな天守(元和天守)が秀忠によって造営された。
1632年(寛永9年)に秀忠が死去すると、今度は3代将軍・家光によって、1638年(寛永15年)にまた天守が造替された(寛永天守)。
つまり、江戸城の天守閣は3度つくられたのであった。
そして、1657年(明暦3年)に明暦の大火で天守が焼失すると、以降、再建されることはなかった。
家康・秀忠・家光の三代の江戸城天守閣についてまとめる。

基本的に謎が多い江戸城天守

江戸城の天守は『江戸図屏風』『江戸名所図屏風』などの屏風で見ることができる。
ただし、これらの絵画はあまり正確とはいえず、それぞれの屏風に描かれた千鳥破風や壁面構造を比較すると、描かれた天守には違いが見られる。
これは、江戸の景観や人々の生活を描くのに重きが置かれ、城の描写にはそこまで力を入れていなかったからとされる。

家康の慶長天守、幕府の象徴となる

家康の天守閣は戦国時代式

慶長12年(1607)、江戸幕府の象徴となる5層の天守(慶長天守)が完成した。
戦国時代の終焉からまだ間もなく、防御力の高い連立式の天守形式であった。

高さ69メートル

天守の位置は現在の天守台よりも200メートルほど南、本丸中央寄りにあったとみられる。
法隆寺の工匠・平政隆が著した『愚子見記』には、天守と天守台を合わせた高さは約69メートルだったと記されている。
作事大工は中井正清とみられる。

雪のように白かった5層式の天守

三浦浄心の『慶長見聞集』によると、天守は鉛瓦を葺いた5層式だったという。
外壁は雪のように白かったというが、これは白漆喰総塗籠によるものとされる。
本丸や西の丸などの内郭も整備され、外郭や石垣の工事も進められた。

大天守に小天守が連なった連立式天守

2017年(平成29年)に発見された『江戸始図』には、大天守に小天守が連なった連立式天守の江戸城が描かれている。
『慶長江戸絵図』に比べると省略やゆがみが少なく、石垣や堀の配置が正確といえる。
御殿の書き込みはないものの、石垣上の構造物が太い墨線で描かれている。

秀忠の代に破却、新たな天守へ

その後、家康が亡くなって2代将軍・秀忠の代になると、元和8年(1622)に慶長天守が破却され、新たな天守(元和天守)が築かれた。

破却理由は正確には不明

この頃は京都の二条城の普請が開始されるなど、将軍家の築城ラッシュだった。
慶長天守が破却された理由は諸説あるが、本丸の面積が狭小で、本丸を拡張するために取り壊されたと考えられる。

秀忠の元和天守、短期間で姿を消した

5層5階の壮大な天守閣

元和天守に関する正確な図面や記録は残っていないので、正確な形や大きさはわからない。
しかし、江戸城の天守が描かれた『武州豊嶋郡江戸庄図』は1632年(寛永9年)頃の発行なので、元和天守と推定される。
天守は5層5階(地下1階を含めると6階)の層塔型天守とされ、しゃちほこ最上階の屋根には鯱が置かれていたとみられる。

秀忠の元和度天守『武州豊嶋郡江戸庄図』(国立国会図書館)

秀忠の元和度天守『武州豊嶋郡江戸庄図』(国立国会図書館)

家光の代に造り替えられる

元和天守も幕府の本城にふさわしい規模だったと推測されるが、この天守も短期間で姿を消している。
1637年(寛永14年)、3代将軍家光は秀忠時代の天守を前年に壊し、新たに寛永天守の造営をはじめた。

家光の寛永天守

武家の棟梁にふさわしい巨大な天守

新たな江戸の象徴として建てられた寛永天守は、礎石からの高さが44.8ートルで、天守台を加えた総高が58メートル超の5層天守であった。
現存天守では1位の姫路城大天守が約46.3メートル、コンクリート製の大阪城の総高が約54.8メートルなので、江戸城がいかに巨大だったかがわかる。

家光の寛永度天守『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館)

家光の寛永度天守『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館)

防火性&耐久性にも優れていた(とされる)

壁面は慶長・元和天守の白漆喰ではなく、防火性に優れて錆にも強い黒銅板を用いている。
強度に優れた檜の柱を使ったり、屋根は木芯に銅板を張った銅瓦で覆うなど、耐久性を高めている。

全国の大名を従えた将軍の化身ともいうべき天守

1615年(元和元年)に制定された武家諸法度によって、新たな城を築くのが禁止され、大名同士の私的婚姻が禁じられるなど、大名の統制が強化された。
家光の時代には参勤交代の制度が定められ、親藩・譜代・外様問わず、すべての大名が江戸に屋敷を構えた。
大名の妻子は国許への帰国が許されず、江戸で実質的な人質生活を送った。

家光の代に江戸城全体も骨格が整った

巨大な天守がそびえ、石垣を駆使した壮大な構えの江戸城は、武家の棟梁の本城にふさわしい姿になった。
元和寛永期の造営事業によって、その後200年以上続く徳川将軍家の繁栄の骨格が整ったのである。

幻の四代目・江戸城天守閣

当初は再建する予定だった天守閣

明暦の大火によって家光の寛永天守は焼失してしまったが、当初は天守は再建する計画だった。
加賀藩主の前田綱紀によって天守台が築かれ、計画図も作成されている。

天守より、庶民と都市のために金をかけた

しかし、保科正之(3家光の弟)の進言により「庶民の救済や都市整備を優先すべき」として天守の再建は中止となった。
前田家が築いた天守台は今も残っている。

各時代の天守閣比較

慶長度天守元和度天守寛永度天守
創建者徳川家康徳川秀忠徳川家光
竣工年1607年(慶長12年)1623年(元和9年)1638年(寛永15年)
解体年1622年(元和8年)1637年(寛永14年)1657年(明暦3年)
天守形式望楼型天守層塔型天守層塔型天守
階数5重6階(地上5階、地下1階)5重6階(地上5階、地下1階)5重6階(地上5階、地下1階)
外観屋根は鉛瓦葺、外壁は白漆喰総塗籠屋根は鉛瓦葺、外壁は白漆喰総塗籠屋根は銅瓦葺、外壁は銅板張
高さ 44.3m〜48m 41.5m44.8m〜51m
台の高さ14.5m〜18.2m12.7m13.8m

↑ページTOPへ