1657年(明暦3年)、江戸城も巻き込まれた大火災・明暦の大火では、江戸の6割が焼失したといわれる。
江戸は木造建物が密集するために火事が多かったため、江戸城と市街地の大半が燃やし尽くされた。
江戸幕府は防災に力を入れ、本所・深川を開発して江戸の都市域を拡げる大工事を行う。
明暦の大火と経緯とその後の復興を簡単にまとめる。
人口が集中し、燃えやすい木造の建物が密集していた江戸は、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど多くの火災に見舞われている。
炊事や灯火が火種になったほか、放火も少なくなかった。
近年の研究によると、慶長6年(1601)から慶応3年(1867)までの267年間で、江戸では49回の大火が発生している。(小さいものも含めると90回以上)
同じ大都市でも京都が9回、大坂が6回なので、江戸の大火発生率は抜きん出ている。
江戸は時代が下るにつれて人口が増えたが、火事の回数も時代を経るにしたがって増加している。
数ある江戸の大火の中でも、最も被害が大きかったのが、明暦3年(1657)1月18日から20日に起きた明暦の大火である。
俗に「振袖火事」とも呼ばれる。
『落穂集』(大道寺友山著)によると、火事が起きた1月18日は北風が強く、5〜6間(約10メートル)先も見えないほど土埃が舞い上がっていたという。
こうした状況下で本郷の本妙寺から出火し、本郷から湯島、浅草橋御門内の町屋まで火の手が広がった。
神田川を越えて海辺の佃島まで延焼し、夜半過ぎにようやく鎮火した。
だが翌日、前日と同じように北風が強く吹くなか、今度は小石川新鷹匠町から火の手が上がった。
田安御門内の大名屋敷、竹橋御門内の堀端にある紀伊徳川家と水戸徳川家の屋敷も類焼し、江戸城本丸の天守と御殿も焼失した。
さらに、麹町からも出火し、日比谷や愛宕下、芝周辺も焼き尽くした。
仮名草子『むさしあぶみ』によると、この大火で江戸城や900余りの大名・旗本屋敷、350余りの神社仏閣が焼け出された。
約10万人が亡くなり、鎮火後も大雪が降ったせいで凍死者が相次いだ。
幕府は人々のために浅草の米蔵を開放し、粥の炊き出しを行った。
また、米や材木の価格高騰を抑え、人々に復興金を下付した。
さらに、大火の犠牲者を供養するため、家綱の命令で万人塚が築かれた。
そこに建てられた御堂が、両国回向院のはじまりとされる。
これ以降も江戸では災害が起きたが、回向院は犠牲者を供養する場として、江戸の人たちの心に寄り添い続けた。
明暦の大火によって江戸の約6割が焼失したが、幕府は防災にも力を入れた都市づくりに着手する。
その1つが、隅田川東岸にある本所・深川の低湿地帯の開発である。
新たな武家地町人地を確保することで、江戸市中の人口密度を少しでも下げようとしたのである。
隅田川の両岸地域の連絡を確保するため、万治2年(1659)に両国橋を架橋した(万治3年の説もある)。
そして、悪水の排水と水運の利便性を高めるため、堅川や大横川の掘割を開削し、掘削土を使って造成を行った。
この辺りは飲料に適し良質の水がなかったので、本所上水を引くなどして生活環境を整えた。
こうして本所・深川は新たな武家地・町人地となり、隅田川東岸地域も江戸の都市部に組み込まれていった。
江戸の再建で大きなポイントとなったのが、焼失した江戸城天守の再建である。
加賀藩主の前田綱紀によって天守台が築かれ、計画図も作成された。
しかし、幕閣の重鎮である保科正之(3代将軍家光の弟)が「天守は実用性に乏しい無用の長物。それよりも庶民の救済や都市整備を優先すべき」と主張し、天守の再建は中止となった。
すでに幕府は安定期に入っており、豪華な天守で威厳を示す必要がなくなっていたのだ。
これ以降、江戸城天守が再建されることはなく、そのまま明治維新を迎えた。
ただし、前田家が築いた天守台は今も残っている。