人口が多い江戸では食の需要が高く、市場にはさまざまな食材が集結した。
初物や外食産業などが発展し、今につながる食文化が育まれていった。
江戸の外食や、今でいうテイクアウト・お持ち帰り食文化を簡単にまとめる。
食文化が発展した背景には、醤油やみりん、塩、砂糖といった調味料の普及がある。 醤油は上方で製造されており、江戸では珍重品扱いだった。 しかし、江戸時代中期には野田や銚子で濃口醤油の製造が盛んになり、江戸庶民に浸透していった。 甘口のお酒であるみりんも調味料として使われはじめ、江戸グルメの味の多様化に貢献した。
江戸には今でいうスーパーマーケットやコンビニはなかったが、商品を天秤などに担ぎ、商品の名を唱えながら(ふりながら)ふり歩く「振売り(ふりうり)」という行商人が町を歩いていた。
天秤棒で商品を担いで売り歩いたので、「棒手振り」とも呼ばれた。
毎日決まった時間に同じ場所を通ることで、常連客を得ていた。
常連客から欲しい商品を聞いて、翌日仕入れることもあった。
彼らは商品を効率よく売るため、時間帯によって売る商品を変えた。
例えば、朝は朝食の味噌汁に入れるあさりや豆腐などを売りに来た。
江戸っ子は納豆を朝食に食べる習慣があったので、納豆売りもやってきた。
昼には、夕飯のおかずになる魚や野菜、調味料、菓子などを売りに来たという。
冷蔵庫がないので買い置きができず、新鮮なものを新鮮なうちに購入していた。
江戸時代には外食産業が発展したが、その背景には江戸の極端な男性社会があった。
江戸の町には、参勤交代で付き添ってきた単身赴任の武士が多くいた。
また、呉服店などの大店は、上方から奉公に来た多くの使用人であふれていた。
さらに、農村の次男や三男などが、職を求めて江戸にやってきた。
このように、江戸は独り身の男性だらけだったので、自炊せずに気軽に食べられる料理屋が発展した。
上方出身の歌舞伎狂言作者・西沢一鳳は「江戸では1町内の半分は喰物屋なり。余は三都の見立てをするに、食は江戸一、二は大坂、三は京都なみやこのひるねり」と述べている。(『皇都午睡』より)
江戸の外食産業で発展したのは、屋台型の店舗であった。
そばや天ぷら、寿司など、すぐに出せる料理が提供された。
江戸前を代表するうなぎも人気で、16世紀には蒲焼きを出す店が出てきた。
寿司や天ぷらといえば高級料理のイメージがあるが、江戸時代は庶民に人気の屋台食だった。
寿司ダネは基本的に火を通したものが多かった。
江戸時代の屋台は、調理台に屋根をつけたもので「立売り」と呼ばれた。
これに対して、肩に食材と調理器具を担いで移動して販売する「振売り」という形態もあった。
浅草寺奥山や両国広小路、上野の山下広小路などの盛り場には、屋台などの飲食店が点在していた。
屋台とともに、江戸庶民が食を楽しむ場として賑わったのが居酒屋である。
酒屋が店先で商品の試飲をさせたのが始まりとされ、座敷で酒や食事を楽しんだ。
注文したら届けに来る「出前」の方式は、吉原遊郭ではじまったといわれる。
遊女たちは、基本的に自由な外出が許されていなかった。
そこで、出前が許された一部の高級遊女が、蕎麦や鰻などを注文したという。
江戸庶民の食への関心はとても高く、料理本も多数出版された。
天明2年(1782)、豆腐料理を紹介した『豆腐百珍』がベストセラーになった。
また、文政7年(1824)に出版された『江戸買物独案内』には、江戸の名高い飲食店が掲載されている。