江戸時代末期

江戸時代 末期 幕末の動乱

アヘン戦争での清の敗北

欧米列強の船が頻繁に来航する中、大陸の清では東アジアを激震させる事件が起こる。
清とイギリス帝国との間で行われたアヘン戦争だ。
幕府は列強との戦争を避けるため、異国船内払令を緩和せざるを得なかった。
しかし列強の開国・通商の要求は拒否し続けるのである。
アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルの通称要求も拒んだ。
その一方で、幕府は関東や全国の沿岸要所の防衛に力を入れるのであった。
しかし、そういった努力も四隻の黒船によって、無用の物となってしまった。

ペリーの黒船来航

当時のアメリカは、西部の開発と北太平洋での捕鯨が活発になっており、日本は重要な拠点として見られていた。
ペリーの役割は軍事的な圧力を加える事で、日本を開国させる事であった。
そのため、大統領の国書も携えていたのだ。
幕府は国書を受け取り、翌年回答する事を約束して、ペリーを一度帰らせるのであった。
老中の阿部正弘(あべまさひろ)はこの一件を朝廷に報告し、諸大名の意見を求めた。
この行為は幕府の権威を貶める事につながる。
そして、一年前にペリー来航の情報を得ていながら、何も対策を立てていなかった事は、幕府の無策ぶりを露呈してしまったのだ。

開国と安政の改革

半年後に再び来航したペリーは、江戸湾の測量を行うなどの軍事的な圧力を掛けていた。
軍艦は七隻に増えていた。
幕府は日米和親条約を締結する。
その後、イギリスロシアとも同様な条約を結び、鎖国体制は終了する事になった。
幕府はその前後に洋楽は軍事教育を行う安政の改革を始めている。
オランダ国王からは軍艦が贈られ、幕府は長崎に海軍伝習所を設けたのだ。
勝海舟もそこで学んだ生徒の一人であった。

日米修好通商条約

日米和親条約に基づき、アメリカの初代駐日総領事となるハリスが下田へとやって来ると、幕府は大いに慌てるのであった。
領事の駐在は両国で必要とした場合のみと解釈していたのだ。
これは幕府側の条約文の誤訳だと判明した。
ハリスは苦労しながらも下田で外交活動を行った。
しかし、下田では埒があかないため、将軍に謁見し通商条約を強く求めたのだ
幕府は条約締結もやむを得ないと考えたが、朝廷は反対であった。
しかし、大老に就任した井伊直弼は、朝廷の許可がないまま通商条約に調印してしまった。
条約は領事裁判権を認め、関税自主権のない不平等な内容であった。
幕府は続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ぶ。
これが安政の五カ国条約と呼ばれるものである。
その後の明治政府は、この不平等条約の改正に尽くすのである。

将軍跡継ぎ問題

ペリーの黒船来航により開国した幕府は、内政でも大きな問題を抱えていた。
子供が出来ない13第将軍 徳川家定の後継者を誰にするかで、二つの勢力が対立していたのだ。
幕府の専制を維特する事を主張していた南紀派は徳川慶福(よしとみ:後の家茂(いえもち))を推していた。
雄藩との協力体制を築こうとしていた一橋派一橋慶喜(後の徳川慶喜(よしのぶ))を推していた。
内政・外交ともに難局を乗り切るため、大老に就任したのが、彦根藩主井伊直弼(いいなおすけ)であった。

安政の大獄と井伊直弼の暗殺

彦根藩は家康時代に武功が高かった譜代大名だ。
幕府の専制維持を推す南紀派である。
井伊直弼は14男で元々は井伊家の跡継ぎにはなれない立場であった。
しかし、兄に子が病死したり、兄弟が養子に出ていた事などが重なり、藩主となった。
井伊直弼は、ほぼ独裁的政策を断行する。
外交では勅許(朝廷の許可)がないまま日米修好通商条約に調印してしまう。
内政では徳川慶福を後継者に決める。
同時に朝廷と結んで倒幕を狙っているという噂が水戸藩などの一橋派を取り締まり、さらに反幕府的な人々を処罰していった。
これが「安政の大獄」である。
当然、その反発は強く、井伊直弼は桜田門外で暗殺されてしまう。
これにより、幕府の専制は崩壊していく事になる。

混乱する江戸の経済

いくつかの港が開かれ貿易が始まると、国内産業と流通機構は大国変化していく。
輸出品は生糸が八割を占めていたが、やがて生産が追い付かない程になり物価の高騰を招いてしまう。
江戸の問屋を中心とする流通機構は崩れ始め、幕府や雑穀や生糸など五品を江戸の問屋を通じて輸出するよう五品江戸廻送令を発令する。
しかし、生産地の商人や外国人に反対され効果はなかった。
安い綿織物が大量に輸入された事から、綿作を営んでいた農村の生活は圧迫されていった。
さらに、金と銀の交換率外国では1対15であるのに、日本では1対5だった為、大量の金が海外に流出していった。
幕府はこれまでになく小さな万延小判(まんえんこばん)を鋳造したが、貨幣価値が下がり、物価の上昇に拍車を掛ける結果となってしまう。

一揆や殺傷事件が横行する

生活を苦しめる開港、貿易に人々が反感抱くのは当然だった。
同時に外国人に対する怒りも強くなっていく。
開国後するに一揆や外国人殺傷事件が相次ぐのであった。
藩士や浪士となった脱藩士による事件も増加していく。
長州の高杉晋作は品川に建設中のイギリス公使館を襲っている
一方、幕府は外国勢力に頼る面もあった。
対馬を占拠したロシア軍艦に対して何もできず、結局イギリス軍艦に脅してもらって事件を解決している。
幕末の動乱が始まると、民衆の間には世直し一揆や打ちこわしが頻発し、最終局面には「ええじゃないか」の乱舞が流行する。
江戸時代の終焉の時である。

幕府と朝廷の政略結婚

桜田門外の変の後、幕府は朝廷との関係改善に努める。
朝廷と幕府が協調する動きは「公武合体」政策と呼ばれた。
両者の関係が良好である事を示すため、老中安藤信正は孝明天皇の妹である和宮を将軍家茂に嫁がせることに成功する。
しかし、和宮にはすでに婚約相手がいた為、この強引な政略結婚は尊王攘夷派から非難される。
安藤信正は坂下門外の変で負傷し、間もなく失脚する。

薩摩藩の暗躍と、文久の改革

和宮と家茂の結婚の儀は挙行されたものの、幕府の公武合体政策は行き詰まりを見せる。
この時に動いたのは朝廷と幕府の双方に深い繋がりがあった薩摩藩島津久光であった。
島津久光は京都へ入り朝廷に幕府との協調を建議するが、巷では久光が倒幕に出たとの噂が広まっていた。
久光は自分の藩の尊王攘夷派を寺田屋騒動などで制圧する。
朝廷勅使と共に江戸へ向かい、幕府に政治改革を要求した。
幕府はこれを受けて、松平慶永を政治総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に任命し、新設した京都守護職には会津藩主の松平容保を任命した。
また、参勤交代を三年に一回に緩和し、西洋式軍隊制度の導入、安政の大獄の処罰者の赦免など、文久の改革を行った。

8月18日の政変

薩摩藩の島津久光が公武合体政策を進める一方、長州藩は尊王攘夷を藩論として朝廷内の尊王攘夷派(尊攘派)と結び、京都での主導権を握った
1863年3月、家茂は徳川将軍として230年ぶりに上洛するが、これは幕府の弱体化を示している。
幕府は尊攘派が優位な朝廷から攘夷の日にちを求められ、5月10日に決める。
長州藩はそれを実行に移し、同日下関の海峡を通過する外国船を砲撃する。
反撃の準備を進めていた薩摩会津は、8月18日に長州勢力を追放した。

禁門の変(蛤御門の変)

主導権を奪った公武合体派は、松平慶永、島津久光、徳川慶喜らによる参与会議を結成し、開港の必要性を朝廷に説いた。
しかし、これに文句をつけて鎖国を主張したのは、再び上洛した将軍家茂であった。
後見職の慶喜は困惑したものの、結局幕府側の意見に転換する。
その意見は支離滅裂なものとなり、参与会議は解体してしまったのだ。
薩摩・会津が抑える京都では、新選組が警備に当たっていた。
旅館池田屋で尊攘派の志士が新選組によって殺傷されると、長州藩は激怒して兵士を送り、禁門の変(蛤御門の変)を起こすが敗北してしまう。
幕府は朝廷から勅許を得て長州征討に動くのであった。

攘夷から開国へ

長州藩は幕府の征討に屈し、藩の上層部は恭順を示した。
一年前に砲撃を加えた外国艦隊は本格的に報復攻撃に出て、下関砲台などを占領する。
高杉晋作らは攘夷が不可能である事を実感するとともに、幕府に従う上層部に反発して挙兵し、藩の主導権を握る
藩論は反幕府へと転じて行くのだ。
一方、薩摩藩は生麦事件の報復として、イギリスから攻撃を受け、西郷隆盛や大久保利通らは藩政を改革する。
薩摩藩も、藩論は攘夷から開国へと変化した。
尊王攘夷派だった長州と公武合体派だった薩摩は、同時期に外国の軍事力を目の当たりにする事で、同じ考えを持つに至るのであった。
対立していたこの両藩を仲介したのは、土佐藩の脱藩浪士であった坂本龍馬だ。
ともに倒幕という立場を取るに至った西郷隆盛と木戸孝允を説得して成立した薩長同盟の密約は、幕末の流れを決定的なものとしたのだ。

第二次長州征伐

長州藩で高杉晋作らが実権を握り、反抗的な姿勢を見せた為、幕府は再び長州征伐を行う事を決定する。
しかし、薩長の密約により、薩摩藩が出兵を拒否したため、征討軍は長州藩に攻め込むことが出来ず、不利な戦況に立たされてしまう。
その時、家茂が急死したため幕府は征討を中止する。
勝海舟を送り幕政の一新を条件として、長州に停戦を合意させた。
15第将軍になった徳川慶喜は政治改革に意欲を見せるが、公武合体派の孝明天皇が急死した事は、幕府にとって大きな痛手となるのだった。

坂本龍馬の船中八策と公議政体論

徳川慶喜は幕政の立て直しに尽力したが、薩摩や長州などには武力倒幕の気運が高まっていた。
その中で公武合体派の土佐藩の山内容堂(やまうちようどう)を通じて、慶喜に政権を朝廷に返すことを勧めたのが坂本龍馬後藤象二郎であった。
龍馬は船中八策において、朝廷の下で慶喜も含めた諸藩の連合政権を樹立する公議政体論を構想していた。
慶喜は山内の勧めを受け入れ、大政奉還を行った。
政権を返上しても、徳川の主導権は維持されると考えての事であったといわれている。
しかし、大政奉還が行われたこの時、別の動きが密かに進んでいたのだ。

王政復古の大号令

武力倒幕派の薩長にとって、大政奉還は歓迎できない策であった。
徳川家が政権に残留する事は認められなかったのだ。
薩長と結んでいた急進派公家の岩倉具視(いわくらともみ)は、慶喜が大政奉還を受け入れた日に倒幕の命令を密かに宣下した。
朝廷は大政奉還を受理した一か月後に坂本龍馬は近江屋にて暗殺されてしまうが、薩摩藩の関与を疑う学説も存在している。
薩長両藩は主導権を掌握し、王政復古の大号令を発して徳川抜きの新政府樹立を勧めた。
天皇の下には総裁、議定、参与の三職が置かれ、260年あまり続いた江戸幕府は滅亡した。
その夜には京都御所の小御所で三職による会議が開かれ、武力倒幕派が公議政体派を圧倒して慶喜の処分を決定した。

江戸城無血開城

王政復古の大号令というクーデターで処分の対象となった徳川慶喜は、大坂城に一度戻り京都へ向けて挙兵した。
鳥羽・伏見の戦い」でこれを迎え撃った新政府軍の軍勢は旧幕府軍の三分の一程の規模でしかなかったが、この戦いに勝利した。
雄藩がイギリスなどから購入していた西洋火器を備えていた為、戦力に大きな差があったのだ。
慶喜は密かに退却し、大坂湾に停泊していた軍艦開陽丸で江戸へ引き上げ、恭順して蟄居(ちっきょ)した。
しかし、徳川家を滅ぼす事が目的の新政府軍は、東へ向けて進軍を続けるのであった。
江戸総攻撃は避けられない情勢であったが、勝海舟と西郷隆盛の会談が実現する。
この会談により、直前で江戸は戦火を免れ、江戸城は無血開城となったのだ。
これを不服とした彰義隊は上野に立てこもるものの、一日で鎮圧される。
会津藩や東北諸藩も、会津列藩同盟を成立させ、新政府軍の侵攻に抵抗するも、後に平定された。
榎本武揚(えのもとたけあき)らは五稜郭を占領したが半年後に降伏し、戊辰戦争は終結した。

五カ条の誓文と東京への遷都

戊辰戦争が進む中、新政府は新政権が成立した事を内外に示し、政治方針である「五カ条の誓文」をを発した。
五榜の掲示では、徒党や強訴の禁止など庶民への心構えが示された。
江戸は東京年号は明治と改められ、天皇一代が一元号とする一世一元の制を立てた。
会津戦争が終息を迎える頃、天皇は東京へ行幸する。
首都については様々な議論があったが、半年後に天皇が再び東京へ行幸し、そのまま戻らない事で東京への遷都が断行された。
これは五カ条の誓文にも表れているように、旧習を一新して政治を進めていく新政府の決意であった。


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